なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

8月4日平和聖日説教

   「狼の群れに羊を」エレミヤ書20:7-13、マタイ10:16-25
            
                        2013年8月4日(日)平和聖日船越教会説教

・今日は平和聖日です。8月第一主日が教団において平和聖日に定められたのは、確か1980年代前半ではなかったかと思います。広島県を含む西中国教区から、ヒロシマの原爆投下の悲惨さを想い起し、戦争のない平和を祈願する日として、8月6日の原爆投下に一番近い8月第一主日を「平和聖日」にという提案が教団総会に出され、決められたのです。

・今年も、ヒロシマナガサキの原爆投下を想い起すと共に、人間や動物や自然の生命と生活を脅かす戦争を絶対にしてはならないことを誓い、それにふさわしい実践を今この時代の中で生きていきたいと思います。特に現在の安倍政権は、かつての日本の侵略戦争を「侵略」と規定する事を嫌い、ある意味でかつての日本の侵略戦争を肯定するかのような言動をはいています。9条を変えて自衛隊国防軍にしようとしていますし、それができない間は、法律制定により、自衛隊のなどの行動を拡げようともしています。戦争の出来る国づくりを進めようとしているかのようです。バブル崩壊後の長引く経済の停滞による、国民の中にある様々な不満・不安をバネにして、強い国づくりをめざし、それを形にしようとしています。

・これは大変危険なことであり、ますます社会的弱者が切り捨てられていくことに繋がります。現に原発事故で福島の多くの方々への支援が最優先されなければならないにも拘わらず、今も核汚染された地下水の海への流失問題をはじめ、東電の事故処理にも大きな不安を抱えている状況で、それに対する国の政策も見えて来ません。沖縄の方々を切り捨て、福島の方々を切り捨てて、日本の国を強くするという安倍政権の姿勢は、ますますこの社会を力が支配する暴力的なものに変えていこうとしているかのようです。

・私たちは、そのような状況の中で、今年の平和聖日を迎えています。

・3・11の東日本大震災と東電福島第一原発事故後に、教会の中にはそれまでの在り方、生き方を変えられているところもあるようです。たまたま最新の教団新報を読んでいましたら、〈主の召しに応えて~伝道のともしび~〉という連載に、茨城県の日立教会牧師の島田進さんという方が書いていました。その中にこういう言葉がありました。

・「地震から2年が経過した。私も教会も生き方が変えられたと思う。立派になるという上を目指す生き方ではなく、降りて行く生き方である。福島の教会との交流やいろいろな支援が無理することなく、楽しみとされながら続けられ、日立教会も恵みと喜びで満ち溢れていることを感謝している・・・・・教会の働き、また伝道とは『降りて行く』働きではないだろうか。『ザアカイ、急いで降りて来なさい』(ルカ19;5)。恵みの招きである」。

・この島田牧師の東日本大震災を契機に気付かされたという伝道についての考え方は、マタイによる福音書の先ほど読んでいただいた箇所が含まれる、10章5節以下の弟子派遣物語におけるイエスの派遣命令と同じです。そこではイエスの派遣命令を受けて、弟子たちがどのように福音を宣べ伝えていくかということが書かれています。この部分を、本田哲郎さん訳した『小さくされた人々のための福音』にある「表題」で読んでみたいと思います。本田哲郎さんは、イエスの弟子派遣の物語を9章36から11章1までとしています。

・ ‐さくされた仲間12人を選び派遣する~動機は痛みの共感~。
 ◆ 崑任舛里瓩気譴人咫覆い舛个鷯さくされた者たち)のところへ行け
  何も持たずに行け
 ぁ(刃臓塀?弔い辛分のない状態)を実現させる働き。
 ァ,泙栖△蠧?譴觴造里覆い箸海蹐蓮△気辰気醗悊上げてほかへ行け。
 Αー綣圓砲修覆錣覺鏡のするどさと率直な対応で、身を守れ。
 А|動気亙_擦鮴い望擇靴垢襪茲さ_顱
 ─,気い瓦泙任瓩欧困法⊂さくされた仲間の側に立ちつづけよ。
  引くときは引いて、粘り強く。
  イエスよりうまくやろうと思うな。
  弾圧してくる人々を恐れるな。
  小さくされた人たちの側に、神は立っている。
  分裂をおそれずに立場を鮮明にせよ。小さくされた者が平和を生み出す。
  小さくされた者への尊敬をこめた連帯が、神の国のいのちを共有させる。

・8月2日から3日にかけて寿の青年ゼミがありました。寿は御存じのように、社会的に弱くされた方々が生活しているところです。横浜市の健康福祉局で出している最新の資料によりますと、寿地区簡易宿泊所には、現在6,429名、市営住宅には92名、60歳以上の高齢者が4,327名、生活保護・住宅扶助受給者が5,242名です。青年ゼミに私は2日の朝から夕方まで参加しました。朝9時半になか伝の部屋に参加者が集まり、20名近くでしょうか、まずオリエンテーションを行いました。スタッフから寿青年ゼミの説明があり、私が寿地区活動委員会の委員長として短い挨拶をしました。私は青年ゼミでは、毎回、「寿の町や住人の方々と出会い、触れ合い、ここで感じ、考えたことを、それぞれの課題にして、皆さんが今後日本の社会のどういう場で生活することになっても、そこで自分なりに担って行っていただきたい」とお話ししています。私の挨拶後参加者全員で自己紹介をして、寿日雇い労働者組合のKさんから、「寿の町ってどんな町?」という題で話してもらいました。

・Kさんは、寿の町や炊き出し、路上生活者のパトロールをしなければならない現在の日本社会の問題を話してくださいました。そして、貧困や差別のない社会にしていくために、あきらめないで活動していくことの大切さを篤い心で語ってくれました。貧困も差別もない平和な社会をめざす自分たちの活動は、目先の効果は見えないが、未来に実現すると確信していると。それはKさんにとっての祈りでもあります。

・私はKさんのその思いを何度も聞いていますが、聞くたびに、この人は希望への信仰に生きている人だと思わされています。Kさんは洗礼を受けたキリスト者ではありませんし、アンチ・キリスト教の人だと思いますが、私は、イエスが生きた地平を共にしている人ではないかと思っています。

・私たちの多くの者の生活は、イエスの弟子派遣命令に従っているとは言えないでしょう。むしろイエスを信じて生きていこうとしていますが、生活はイエスのような放浪しながら、小さくされた人と共に生きる生活ではありません。信仰と生活が必ずしも一致しているとは言えず、むしろ生活は世俗社会の中で資本の論理が支配している場所にあり、その中で信仰生活・教会生活を失わないでいこうとしているのが、私たちの現状です。ですから、いつも私たちは、“どっちつかず”な面を抱えながら生きています。その意味で、「金持ちの人」がイエスに、「永遠の命を得るためには何をしたらいのか」と質問したら、イエスは「全財産を貧しい人に施して、私に従ってきなさい」と答えました。その時「金持ちの人」は、寂しそうにイエスのもとを去って行ったという、あの物語の人と同じです。ただ私たちは、あの金持ちの人のように、イエスのもとを立ち去ってしまうのではなく、それでもイエスのもとに留まりたいと願っているのではないでしょうか。神と富みとに兼ね仕えることはできない、のですが、神と富の両方に足場を置きながら、その“どっちつかず”を抱えながら、私たちは、イエスに従う道を模索し続けていかなければなりません。

・今日の船越通信に書きました、Aさんの友人の方との出会いを通して感じた問題も同じです。この方の場合も、社会人としての自己と信仰者としての自己が乖離するという問題だと思われます。企業人だった時に、労務管理の仕事を会社から任されて、そこで働いていた人に経営者の側の論理で対してしまったのではないかという悔恨の思いが、93歳のご自身の身に重くのしかかっているということではないかと思います。おそらく、この方は当時もキリスト者として苦悩されていたと思われます。企業論理に疑問を持たない人とは違って、悩みながら労務管理の仕事をされたと思いますので、実際は労働者の立場をできるだけ考えたということもあったのではないでしょうか。それでも労務管理の仕事は会社の側の論理が優先するところですので、その立場にあった者として痛みを感じざるを得ないということなのでしょう。

・多かれ少なかれ、この日本という資本制社会の中に糧を得て生活している私たちは、この矛盾を抱えながら、そこでキリスト者としての歩みをしていかなければなりません。そのような私たちに、イエスの弟子派遣命令が語られているのです。イエスとの関係を密にしていくと共に、イエスの言葉を大切にして、“どっちつかず”というストレスに耐えながら、私たちの生活のシフトをよりイエスとイエスの言葉が示す方向へ向けていきたいと思います。その際、弟子派遣命令物語の中で、イエスが弟子たちに語ったとされる言葉、「狼と対照的な羊として、派遣するのだ。蛇のように感性するどく、鳩のようにそっちょくに行動しなさい」(本田訳)を常に想い起して歩みたいと思います。あきらめないで、イエスが宣教された神の国の実現成就という、神にある確かな希望に支えられ、力づけられながら、自分なりの歩みを続けていきたいと思います。

・平和の実現のためには、さまざまな平和のための運動も必要でしょうが、本田哲郎さんが「小さくされた者への尊敬をこめた連帯が、神の国のいのちを共有させる」と言われていますように、私たち一人一人が、そして多くの方々が、その方向にシフトして生きていくことことにかかっていると思います。今はどんなに少数であっても、その道を、忍耐強く歩み続けることです。その際、寿日雇い労働者組合のKさんの言われるように、「必ず差別のない、その人がその人らしく生きられる平等な社会が未来に実現するという確信を持ちつつ、あきらめないで」やり続けることでしょう。それこそ、「蛇のように感性するどく、鳩のように率直に行動しつつ」です。

・それを行わせてくださる神の霊の命が、私たち一人一人の中に豊かにそそがれますように。   
                                      アーメン。