なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(208)

 20日の土曜日から22日の月曜日まで、岩手の奥中山教会と盛岡に行ってきました。21日の奥中山教会で

は教会創立記念礼拝の礼拝説教を担当させていただきました。奥中山教会は創立32年、伝道所の設立から

しますと62年になります。

 私が奥中山教会の創立記念礼拝に招かれたのは、今回で2度目です。1996年にも紅葉坂教会の牧師時代

に招かれました。奥中山教会と私との関係は、伝道所の時代に、確か1964年だったと思いますが、神学生

時代奥中山出身の友人と二人で夏の間夏期伝道実習をしたことにあります。当時の奥中山伝道所は、今で

も建物は現存していますが、礼拝は出席者数名でした。今の奥中山教会はカナンの園の関係者が沢山礼拝

に出席していますので、80名前後の礼拝出席者です。夏期伝道実習中の礼拝に、突然当時岩手大学にいま

した、既に天上の人となられた大島孝一先生が礼拝にいらっしゃったことがあります。その時友人か私の

どちらが説教したかは忘れてしまいましたが、ぼくと友人は大変緊張しました。懐かしい思い出の一つで

す。

 今回は、奥中山教会での働きを終えた後、盛岡の内丸教会の牧師館(旧宣教師館で木造の素晴らしい建

物です)で、21日の夜と22日月曜日の2度小さな集まりをもっていただき、私の裁判の問題や聖餐の問題

を話し合う機会が与えられました。初めての方とも率直な意見交換をすることができ感謝しています。21

日の夜は内丸教会の牧師館の一室に泊めていただきました。

 昨日は一日休養を取り、3日間このブログもお休みにさせていただきました。


 さて、今日は、「父北村雨垂とその作品(208)」を掲載します。 


            
            父北村雨垂とその作品(208)
  

  原稿日記「風雪」から(その27)

 禅者の悟り構造は宇宙に於ける現象が自然的に構成されたいわゆる自然現象的世界現象であり、それが

マクロの世界であり、その自然現象において構成された世界の自然世界を構造 ― 即ち構成したものと

観ている。即ちそれはあくまで禅者の形而上学的観察であり、その基盤の上に起つ実存的生活に生き、そ

こに修と行を併用する特殊生存的実存主義型能の生活を基本とする意識のもとに存在する学であると云う

ことができる。

                          1985年(昭和60年)2月10日


 風は跨って 夕陽に赫い駅をムチに   1985年(昭和60年)2月10日


 仏法(禅)に於いての生活
 
 俺(わたし)は僕(ワタシ)は風で
 
 汝(おまえ)も風だ
 
 でも犬(ポチ)よ 

 
 僕(オレ)はで 汝(おまえ)も風だよ でも犬(ポチ)よ


 禅に於ける「悟り」という境地を以心伝心の外に表現(直接に)不可能とされているが、六祖惠能大師

の様に例えば例の適切なものを以て表徴すれば不可能では無いと考えている。つまり「悟れた」瞬間の意

識を触角を以って代置する一事である。言葉を換えて云えば、味覚とか臭覚も視覚などと云った意識の境

を代置することに依って少なくとも可能にすることが生成する。殊に味覚の境地は臭覚とあわせて表徴す

る方便とするなどは、吾人の心理の働きに、つまり意識の働きに興味ある課題を領して居る様に、私には

考えられるのである。

                            1985年(昭和60年)2月13日


 次郎ッペは笊(ざる) 春ちゃんは馬穴で裸足(はだし)   1985年(昭和60年)3月18日


 禅に於ける「悟り」とは、仏なる眞理も全面的に眞理であると「納得した」その様にできた一瞬から継

続即ち修行によって持続する行(修行)の場即ち境を大事に護る即先覚の教えを永遠に持続する行動の世

界に働く精神の用である。

                            1985年(昭和60年)2月15日


 僕(おれ)は風だよ 君(おまえ)も風だ でも犬(ポチ)よ  1985年(昭和60年)2月12日(?)


 父を天に 母を大地に 般若の慈悲を鐘に        1985年(昭和60年)3月8日(?) 
              
              (鐘には慈悲を)

 
 信心を私流に解釈すれば、「身」は相であり「心」は無相であり、その無相の心は有相の「身」全体の

働きつまり身の持つ「力」の「働き」により無相の相であり、即身の「用」であり即ち用は身なる有相の

働きであり、その働きなる「力」は無相の「用」であり、これがノエマであり、意識でありノエシスであ

り心である。故に心は有相の用であり、結局「無」相の用であり無相的存在の「心」であり意識であり無

の存在であると考えられるのである。

                           1985年(昭和60年)3月4日