今日は「黙想と祈りの夕べ通信(229)復刻版を掲載します。
黙想と祈りの夕べ通信(229[-20]2004・2.15発行)復刻版
先週の木曜日、金曜日と一人の方の葬儀が教会で行われました。木曜日の前夜式の夜、その方のお姉さ
んのお連れ合いが召されました。同じ前夜式の最中に私の中高時代の友人が急逝した知らせがありまし
た。立て続けに3人の死を経験し、死についていろいろ思いめぐらす機会を与えられました。二人は仏式
の葬儀で、私は友人の通夜とお連れ合いの告別式に出席しました。死んだ友人は、当教会で中学3年のク
リスマスだったと思いますが、洗礼を受けました。私が初めて当教会に来たのが高校3年生の11月で、超
スピードですが、12月のクリスマスに洗礼を受けました。私が教会に来た頃には死んだ友人はすでに教会
には来ていませんでした。大学受験の時期に重なっていたこともあると思います。彼はその後大学に進学
し、60年安保を経験し、父親の死を契機に家業である酒屋を継ぎました。高校を卒業して彼に会ったの
は、クラス会で数回に過ぎません。この5,6年彼の提案もあり、彼が幹事を引き受け、1,2年おきにクラ
ス会が行われるようになりました。私も都合が合えば出るようにしていますが、彼は、一度だけ彼と幹事
を一緒にしてくれているクリスチャンの女性の友人と当教会の礼拝に出席したことがありました。北村の
説教を聞きたかったからと言って。その彼女の話では、彼は当教会で受洗していることを気にはしていた
ようですが、葬儀も新横浜の葬祭場で仏式で行われました。彼のように中高時代洗礼を受けて熱心だった
友人も他に何人かいますが、現在まで教会と結びついて信仰生活を続けている人はそう多くはいません。
高校時代、教会に来るまでアンチ・キリストであったぼくのような者が牧師になっていることが不思議と
しか言えません。一人一人の人生の軌跡がどう描かれるかは、本当に分からないものだと、しみじみと感
じています。出来うるならば、それぞれの人生を、死の間際には自分なりに受容したいものだと思わされ
ました。
(以下略)
この黙想と祈りの夕べは、本年4月から第2から第5水曜日午後7時からに日時を変更させていただくよ
う、3月の教会総会で了承を得たいと思っています。昨年度、今年度の牧会方針の中にもいずれそうした
いと明記してありますが、2004年4月からそうしたいと願っています。ご了解いただければ幸いです。第
一水曜日午後7時からは定例の祈祷会です。
「あらしを静められる時」(『ルターによる日々のみことば』より)
起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。 マタイ8:26
ここに現わされているようなキリストを、わたしたちの救い主として知り、信じなければなりません。
このかたはみこころならば、悪魔のほえたける風を制御し、怒れる波をしずめ、その力をとどめられるこ
とのできるかたです。ここに、貧弱な教会にたいするよこしまなあざけりの敵の力に対しても、慰めとい
たわりを見いだすことができます。この小さな舟にたいしてあらゆる嵐がほえたけっても勝つことができ
ないからです。その勝因はキリストであり、わたしたちの主であります。このかたは、五千年以上も風と
波をすずめてこられたかたであり、今日においてもなお、嵐に命じて、しずめることのできるかたです。
五千年にわたって、敵は失敗してきましたし、将来においても、最後の時まで、彼らの悪だくみは失敗し
つづけ、成功することがないでしょう。舟の中に横たわって眠っておられるこのかたは、時がくれば、わ
たしたちの祈りにこたえて起きあがり、風と波とに命じることのできるかたであることを示されます。そ
の時、舟を沈めようと攻撃し、嵐を起こすすべてのものは、失敗に終わります。
1546年の説教から