なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(206)

 今日これから私の裁判支援会の事務局会に行きます。最高裁の上告書は8月末から9月初めまでにまとめ

ればよいようですので、先ずは控訴審判決却下の報告を中心に通信第8号の編集が課題です。この8号は支

援者約900名と共に教団の全教会に発送する予定です。

 さて、今日は「父北村雨垂とその作品(206)」を掲載します。 


               父北村雨垂とその作品(206)
  
  原稿日記「風雪」から(その27)
 
 =五十九年十二月拾六日午前二時三十分= これは私にとって最良の日であり時間であった。と云うの

は、ここ十数年来病床上にあって仏法に於いての禅者の悟覚に就いて深い関心を抱き続け、手に探り得る

限りの尊敬する禅者の著書、関係学者の哲学を糧として悟りの本態を把握しようと努めた。然しながらそ

の努力も殆ど無価値な状が続き、最も深く傾倒した西田、田辺の両学者とそれに続く、いわゆる京都学派

の人達殊に最近発刊された安藤正瑛博士の悟りの構造~大蔵出版~等にみる非連続の連続等と云ふ矛盾に

等しい論に於ける大自然の創造者とも断ずべき宇宙の自然状態等に、私なりに納得に至らざる事態即ち非

連続の連続なる世界、深く云えば全宇宙の創造に成る世界の時態(或は帯)に対する現象態に対する「不

信」を洗ひ落す事が出来なかったという苦悶が私に生き続けていた。それがふとした偶然に近い時間帯に

於いて上に述べた、エトヴァスに解決の窓が開かれた一瞬を把握することが出来た。私にとっての奇跡に

遭遇する機会を採り得たからである。 以下そのときの時間帯に於ける私の体調の変化の境を再び記憶を

たどって追究してみようと思う。

 即ちその前夜曾って長男夫婦に土曜日の休養日を合せて日曜と続くわけであり、偶には親子揃って夕食

でも食べて子供たちを喜ばせて遣る様話した。一事に彼等の賛同によって横浜駅周辺え往くと云われ、早

速の事ながら生憎私の体調が甚だ思わしく無かったが、僅かの時間でもあり、我慢すれば出来るであろう

と認可したのであるが、その後体調に著しい変化と共に腹痛迄伴いその場も盲腸を中心として激痛を覚え

たが、曾って私の子供達三人迄が盲腸手術を行ひ、特に次女と次男は二回も手術した事態も有ったので、

「若しや」の疑ひも道づれして苦悶を続ける状態となった。そのうち長男夫婦と孫姉妹が帰ったが、わた

しの苦痛はいささかも退潮を示して呉れなかった。やがて就眠の時間であり、今更医師を呼ぶ訳にもいか

ないし、それも明日は日曜でもあり、不運な時間が続く訳故、ままよいよいよとなれば百十番して救急車

を頼む方法も有るとの考えから、出来得る限り苦痛に耐える事として自らを納得させて、就眠えと努力し

たが、その後も依然として病勢は衰えず、相変わらず盲腸の周辺を中心として激痛が続いた。やがて前日

である十五日午後十一時も過ぎ十二時も近くなって、小康を得た様に感じ、小用を尿壜に採り、無理に目

を閉じる等して明日の時間を早かれと期待したが遂に得ず、第二回の採尿の時間にいささかながら激痛も

やわらいだ様に感触したので、その後を再び目を閉じてみた。果たしてこれが倖してそれまでの激痛が軟

痛に迄なり、一安心すると同時に何時しか眠って、再三の尿に目覚めた時間は連日の習慣となっている五

時を三十分過ぎていた。

 その時に正にその時である「私の今日迄持ちつづけている非連続の連続と云う無時間的意味を包含する

この命名に持ってゐた疑問が斯うした時間態の持つ「何か」即ちエトヴァスを吹き消した非連続の連続と

いう絶対無を意識する絶対時間を、亦言葉を換えて云えば絶対無に依って表徴する時間態を意識する生死

を一如とする自然現象即ち斯うした世界に遇う機会にめぐまれた「喜び」が59年12月16日午前5時30分に

恵まれた事態に私は無暗に快哉を叫ぶ衝動とその衝動を押し殺す意識の働きとの闘争を意識したものであ

る。

                        1984年(昭和59年)12月16日午前11時38分完了