なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(2)

       使徒言行録による説教(2)、使徒言行録犠6-8節   

使徒言行録6節から8節には、イエス使徒たちの問答が記されています(ここでのイエスは復活の主イエスです)。6節に、「さて、使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた」と、イエスに対する弟子たちの質問が記されています。この使徒たちの質問は、4節、5節の「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼を授けられるからである」というイエスの命令にたいする反問になっています。

・ですから、「この時ですか」という「この時」とは、「間もなく」来ると言われる「聖霊降臨」の日のことでしょう。この時に「イスラエルのために国を建て直してくださるのか」と使徒たちはイエスに問うているのであります。ユダヤキリスト者であるここでの「使徒たち」にとっては、イスラエルのために国を復興して下さるのは神で、神は終わりの時にイスラエルの国を正しい秩序に変えて下さると信じていました。彼らは現在のイスラエルはローマに支配され、またユダヤ自治機関であるサンヒドリンによってイスラエルの真の伝統が踏みにじられ混乱しているとして、その復興を願っていたのでしょう。

・そういう意味では、「この時」とは、神がこの歴史に直接介入しきて、救済をもたらす終末の時と考えられます。通常のユダヤ人とユダヤキリスト者としての民族主義的な終末への期待がここにはあります。

・ところが、7節でイエスはこのように言われています。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」と。ここに「時期」という言葉があります。「時期」とは一定の期間を意味しますから、その前の「時」とは区別されるものです。

・最初期のキリスト者の中には、パウロのテサロニケの信徒への手紙に現れていますように、終末はすぐやってくるという熱狂的な期待が広まっていました。パウロもまた、そのような終末がすぐ来るという意識を持っていました。イスラエルの国の復興、神の国の完成が間近に迫っているという意識です。しかし、その期待は、今すぐ実現するのではなく、時や時期は神のみ手にあり、その時は延びるというのです。このことは使徒言行録では、その著者ルカによって、「イスラエルのために国を復興する」時と「万物の復興」(3:21)の時が区別して描かれており、後者が「終末の時」であるのに対して、前者は、確かに「終りの時」でありますが、聖霊の降臨とともに開始される「時」、すなわち7節の「期間」であって、それ自体が「終末の時」ではないのです。

・この「期間」に当たるのが、いわゆる「中間時」を意味し、それは「教会の時」で、教会が全世界に福音を宣教するために与えられている時と考えられてきました。ある人は、「イエスの昇天以後、歴史は延びるということを明言したところに、使徒言行録の重大な貢献がある」と言っています。それは、この使徒言行録の歴史理解によって、「大地に足を踏みつけた堅実な生活態度が要請されるからだ」というのです。つまりもうすぐ終わりが来るという熱狂的期待だけなら、淡々と続く日常を堅実に生きるエートスを人々から失わせていくであろうというのです。ルターのように、「明日世界が終ったとしても、私は今日リンゴの苗を植える」という人は少ないでしょう。明日世界が終るならば、今やりたいことをしようという安易や生活態度になりやすいと思うからです。終末は近いという緊迫感と、にもかかわらず歴史は続くという冷静な理解とに支えられて、私たちははじめてこの世を、堅実に営むことが出来るのではないでしょうか。そういう意味で、使徒言行録がはっきりと終末の遅延を示したということが評価されているのだと思います。

・8節で、イエス使徒たち(弟子たち)に聖霊が降ることを予告しています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と。「これは直接的には、2章の聖霊降臨の記事に繋がるものですが、『聖霊によるバプテスマ』についての福音書の記事(マルコ1:8、マタイ3:11、ルカ3:16)が今や実現しようとしているのであり、それによって、人格の主体がもはや自分ではなく、イエス・キリストご自身に入れ替わるということを意味します。つまり古い自分に死に、聖霊が主格として臨むのであって、ただ奇跡的な新しい力が外からつけ加わるということ(つまり単なる力の増大の意)ではありません。これもまた、今後描かれる初代のキリスト者たちの姿を誤りなく理解するために、大切な一つの視点であります」(高橋)。

・さらに8節では、「弟子たちの働きの場はユダヤの地に限定されることなく、地の果てに至るまで、彼らは証人として派遣されるであろう、とイエスは言われました。つまり全世界が福音宣教の対象であり、神の民イスラエルは今や世界的に拡大される、というのです。これは弟子たちにとて、驚天動地とも言うべき告知であったに違いありません。彼らはエルサレムにおいてすら、迫害を恐れて身をひそめていたのです。そして強大なサンヘドリンの勢力に、いかに立ち向かうべきかということで、頭が一杯になっていたと思われます。しかし、エルサレムどころか、サマリヤ全土をも越えて、地の果てまで派遣されることを、イエスは予告されたのです。彼らの視野はこうして一挙に拡大されましたが、イエスが天地の創り主なる神の独り子であったとすれば、この壮大なヴィジョンは、むしろその当然の帰結でありました。この激烈な視野の拡大を受けとめるためにも、彼らは40日にわたるイエスの教えを、必要としたに違いないのであります。(高橋)。けれども、この部分は復活のイエスと弟子たちとの対話というよりも、このイエスと弟子たちとの対話には既に成立していた教会の解釈が入っているのではないかと思われます。使徒言行録のルカにとりまして、「地の果て」はローマを意味しました。エルサレムから始まった福音宣教は、全ユダヤに広がり、サマリヤの全土、更にはローマにまで到達します。そのようなイメージをもって、ルカは「教会のはじめ」を使徒言行録で描いているのです。

・さて、このようなルカにおける世界伝道という考え方は、マタイ福音書の28章19節以下の「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という伝道命令とともに、これまでに教会が帝国主義的な伝道を行ってきた聖書的な根拠となっている個所です。

・田川健三さんは、8節の「地の果てまでも、私の証人となるであろう」という個所の「本文への註」でこのように書いています。「たったこの一言のせいで(及びマタイ28:19。本当はそのせいだけでもないのだろうけれども)、かつての(今でも)帝国主義支配の世界において、19世紀から20世紀にかけて、帝国主義支配の軍事力と経済力に庇護されながら、世界のすみずみまでキリスト教宣教師が使命感に燃えて出かけて行った。その伝道先で生命を落とした宣教師も大勢いらっしゃる。彼らの中には、すぐれた人もいろいろといらっしゃって、その土地の発展に貢献なさったけれども、他方では、まさに文字通り帝国主義的侵略の手先にすぎなかった手合も非常に大勢いた。何と申しますか。もちろんルカさんの責任ではないが。」と。

・先週開催された第38回合同後24回教団総会の会場の表面には、議長団の上に「伝道する教団の建設」という横断幕が掲げられていました。そして総会会期中の議事の中でも繰り返し、議長は、伝道する日本基督教団の建設ということを言葉に出していました。教会は伝道に励んでいないというのでしょうか。そもそも伝道ということで、議長は何をかんがえているのでしょうか。議長の言葉の端々から理解する限り、議長の言っている伝道とは、一人でも多い受洗者を獲得することのように思えます。何を伝道するのかということでは、信仰告白と教憲教規しか語りませんので、よくわかりません。私は今の教団執行部のこのような伝道の姿勢に帝国主義的な伝道と共通するものを感じています。

・「神の国は、…聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)とすれば、神の国の証人としての弟子たち及び私たちキリスト者は、そのことを他者と共に喜ぶ交わりこそ教会ではないでしょうか。ルカはそのような「教会のはじめ」を使徒言行録で書いているのだと思います。しかし、ルカは、1世紀の終わりごろ、すでに相当地中海沿岸に教会が広がっていて、ユダヤ教キリスト派から脱皮して、世界宗教としてのキリスト教ができつつあった時にこの使徒言行録を書いていますので、彼の神学的なイメージをもって、上から鳥瞰する描き方をしているように思われます。そのルカの教会についての考えは、歴史を飛び越えて観念的に受け取られる危険性があるのではないでしょうか。私たちは下からの教会建設に注目しながら、この使徒言行録を読んでいきたいと思います。