なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(537)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(537)復刻版を掲載します。2010年1月のものです。

 第39/24回教団総会の報告書に「沖縄教区」の報告が掲載されています。そのF「評価と展望」には

「第73回沖縄教区定期総会議長総括」があります。226頁から236頁に及ぶ長文の議長総括です。是非この沖

縄教区議長竹花和成さんの議長総括をお読みください。教団の教会伝道所にはすべて教団事務局から送付さ

れていると思いますので、所属している教会・伝道所にありますので、それを借りて読んでみてください。

内容的に素晴らしいものです。その議長総括の中に「北村慈郎牧師免職撤回を求めて」という項目があり、

私の免職処分はとうてい受け入れられないと明言してくださっています。

 私はこの竹花さんの議長総括を読んで、改めて教団との間に距離を置いている沖縄教区と教団から免職処

分を受けている私の立場がどこかで通底しているように思えました。ですから、私の戒規免職処分の撤回が

あるとすれば、沖縄教区と日本基督教団との関係の回復の時ではないかと思わされました。その意味で現教

団においても「戦責告白」と「合同のとらえなおしとその実質化」を担う方向での取り組みが求められてい

ることを、改めて強く思わされました。


        黙想と祈りの夕べ通信(537[Ⅺ-15]2010・1・10発行)復刻版


 私は常々「弱さの神学が持つ危険な罠」が私たちの教会の中にあるのではないかと思っています。

 たまたまヘンリー・ナウエンの『わが家への道~実を結ぶ歩みのために~』を読んでいましたら、ナウエ

ンも「弱さの神学が持つ罠」について問題にしていましたので、それを紹介させていただきたいと思います。

ナウエンは言います。「無力であることは、どん欲を追い求める実社会のなかで、足ふきマットの役割にあ

まんじようという意味でしょうか。ものやわらかで、受け身的で、人にへつらうのがよいというのでしょう

か。わたしたちの生活を闇の力の支配に任せてよいのでしょうか。経済的、組織的、肉体的、情緒的弱さが、

いまや美徳として教えられるのでしょうか」と。さらに「仕事にありつけない貧しさの中にある人々を、神

の祝福を受けた人々と持ち上げてよいのでしょうか」と言います。そしてナウエンは、「弱さの神学が持つ

危険な罠の一つ」に触れて言います。「わたしたちを隷属させようとするこの世の力からの自由が、弱さに

隷属することでしか得られないなら、神の側に立つより、サタンの側に立つほうがよっぽどましに思えます。

もし弱さの神学が、弱体化を歓迎する神学となれば、それは、無能さ、隷属、自己卑下、また敗北したとき

の格好の言いわけを提供するでしょう」と。「しかしそれは、理論上まったく考えられません

たしかに、経済的、知的、霊的弱さが、神から与えられた特権であるあのように解釈されることが少なくあ

りません。また、神のために苦しまないよりは苦しむほうがよいという判断で、十分な医学的、心理学的な

援助が遅れたり、妨げられたりすることが珍しくありません。また、慎重な計画、積極的な募金活動、考え

抜いた将来構想が、『無力』という理念に従っていないと不興をかうことがあります。さらに、病人、貧し

い人々、ハンディを負った人々、苦しみにあるすべての人々が、その宿命からは解放されるための充分な支

援を受けるどころか、神の特権にあずかった子どもたちだと美化されることが少なくありません」。

 「哲学者のニーチェは、まさにこの弱さの神学を鋭く批判しました。彼にとってそれは、貧しい人々を貧

困のなかに閉じ込め、身を低くして服従させ、既存の宗教組織の支配者に、見せかけの『信仰深さ』を保た

せる神学だったのです」。

 しかし、ナウエンは「弱さの神学」の積極面に触れて以下のように言います。

 「弱さの神学は、この世で言われる弱さ、つまり社会や教会の勢力に操られる弱さではなく、徹底的に、

また無条件に神に依存するほかない弱さに目を注ぐようにわたしたちにチャレンジします。それは、傷つい

人間性を癒し、罪に支配されたこの世の現実を新たにする神の力の、真の通路とわたしたちがつながる道

を開きます。弱さの神学は、まことの神の力、すなわち、すべてを変革する愛という力を明らかにします」。


 「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(汽灰12:9)とはそういうことです。ですから、「弱さの神

学は、神聖な力でわたしたちを力づける神学です」と、ナウエンは言います。

 「弱さの神学」がともすると陥りがちな罠には十分注意して、ナウエンが言うところの「弱さの神学」が

持つ肯定的、積極的な面を見失わないようにしたいと思います。



        「自分を受け入れられない自分をのり越える」  1月10日


 霊的な生活における大きな危険の一つは、自分を受け入れられないということがあります。「私のことを

本当に知ったなら、人々は私を愛してはくれないだろう」と言う時、私たちは闇に向かう道を選んでいるの

です。しばしば自らを軽んずることは美徳であると信じ込まされており、それは謙遜と呼ばれています。し

かし実は、謙遜は自らを軽んずることとは反対のことなのです。それは、神の眼には私たちは貴重であり、

私たちの存在のすべてが贈り物そのものであるということを感謝をもって認めることです。自分を受け入れ

られない自分をのり越えて成長するためには、私たちを神の愛しい子どもであると呼びかける声に聞き従う

勇気を持たねばなりません。そして私たちは、常にこの真理に従って生きるという決断に耳を傾ける勇気を

持たねばなりません。

 

                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)