なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(13)

        「おぞましいことが」エレミヤ書5章20~31節
             
                    2015年8月9日(日)船越教会礼拝説教

・現代人である私たちは、私たち人間が神に造られた被造者であるということを意識することは、なかな

か難しいのではないでしょうか。特に都市生活者である私たちは、人間が創造したこの物質文明の中で生

きていますので、神に代わって自らが創造者であるかのように、錯覚の中で生きているのではないでしょ

うか。現代社会から比べたら、はるかに神によって造られた自然の秩序の中で生きていたと思われます古

イスラエルの民も、己が神に造られた被造者であるということを見失うこともあったようです。

・エレミヤは、そのようなイスラエルの民を<愚かで、心ない民>(21節)、<目があっても、見えず、

耳があっても、聞こえない民>(同)と断じ、その民を見て主なる神は、<わたしを畏れ敬いもせず、わ

たしの前におののきもしないのか>(22節)と言われる、と語っています。

・どんなに海が荒れ狂っても、海と陸の境界である「砂浜」を越えて、陸地に越境してくることはできな

い。けれども、イスラエルの民はそれをしているというのです。<わたしは砂浜を海の境とした。/これ

は永遠の定め/それを越えることはできない。/彼が荒れ狂っても、それを侵しえず/とどろいても、そ

れを越えることはできない>(22b節)と。このような言葉が語られているということは、エレミヤの時代

イスラエル人には、東日本大震災の時の大津波のような経験がなかったのかもしれません。<しかし、

この民の心はかたくなで、わたしに背く。/彼らは背き続ける>(23節)とは、神を神とせず、あたかも己

自身が神であるかのように振る舞っているイスラエルの民の高慢を指して、エレミヤがそれを指摘してい

言葉ではないでしょうか。

・エレミヤは、さらにこのようにも語っています。<彼らは、心に思うこともしない。/「我々の主なる神

を畏れ敬おう/雨を与える方、時に応じて/秋の雨、春の雨を与え/刈り入れのために/定められた週の祭

りを守られる方を」と>(24節)。人は誰も自然の恵みによって生きることが許されている者です。自然と

人間が作り出す社会(歴史)は、私たち人間が生存の場として与えられている土俵としての環境です。人間

が作り出す社会(歴史)から離れて無人島という自然だけで生きることができるかも知れませんが、それは誰

にでもできることではありません。現在のこの地球世界にどれだけそのような人がいるのかはわかりません

が、もしそのような人がいたとしても、例外中の例外にすぎないでしょう。ほとんどの人間は自然と社会を

生存の場として生きているのであります。

・その自然の恵みを与えてくださっている方のことを、イスラエルの民は、<心に思うこともしない>と、

エレミヤは言っているのです。

・私が住んでいます秦野には、少し歩くと田んぼがあって、梅雨の初めのころには田植えの風景を見ること

ができます。その田植えは、ほとんどが機械で行われています。稲の苗を手に取って、一本一本水を張った

田に植えていくのではありません。農夫は自動車を運転するようにその田植機を操作して、田植えを行って

います。けれども、数日前にテレビで放映されていました、ある教派の牧師さんの息子で、農業をしている

方がやっている農場を、柔道家篠原信一さんが訪ねて、そこでのキュウリやインゲンの育て方を見学し、

その農場でとれた野菜をメインにした、窯によるその方の手作りの料理をいただくという番組でした。その

中で、腰痛に悩むその牧師の息子さんが、ある方の指導で4日間のストレッチで腰痛を直すことに挑戦し、

機械に頼らず、すべて稲の苗を手で植えつけることを、ひと月遅れながら完了できた場面もありました。こ

の方は機械を媒介としないで、自然と人間(自分)との向かい合いで、農薬を使わない自然農業を行ってい

るようです。このような人は、エレミヤが語っているように、「その自然の恵みを与えてくださっている方

のことを、<心に思うこともしない>と言われているイスラエルの民とは違って、自然の恵みを与えて下

さっている方への感謝と畏れを失ってはいないように思えるのであります。

・しかし、エレミヤの場合、時に応じて、秋の雨、春の雨を与えるのは、主なる神であるのに、その神を畏

れ敬わないイスラエルの民の罪が《恵みの雨》をとどめた原因にほかならないと言われているのであります。

<お前たちの罪がこれを退け/お前たちの咎が恵みの雨をとどめたのだ>(25節)と。ここでは、「自然界

の秩序と関連して、その秩序への感覚の喪失として表れる人間の罪が指摘されている(関根、註解63頁)と

言われます。人生の祝福は神の創造の秩序、自然界の秩序に従うことによって来るのですが、原子力発電な

どは、むしろ自然界の秩序、神の創造の秩序を無視して、罪の罪たることを知らない現代人である私たちの

愚かさの現れと言えるかもしれません。その結果、私たち人間が神に造られた被造者として本来与えられる

べき祝福も拒まれてしまっているのではないでしょうか。神の創造の秩序の下に、神に造られた被造者とし

て私たち人間は祝福された生を生きていくべきでありますが、人間が生み出す物質文明に幻惑されて、私た

ちは神の被造者としての自らの存在の本質をさえ見失ってしまっているように思えてなりません。ある意味

で、今日のエレミヤ書において、エレミヤが批判しているイスラエルの民と私たちとは同じように思えます。

・今日のエレミヤ書の後半のところ(26-31節)には、エレミヤが見た当時のイスラエル社会の不正と腐敗が

描かれています。例えば27節、28節には<籠を鳥で満たすように/彼らは欺き取った物で家を満たす。/こ

うして彼らは強大になり富を蓄える。彼らは太って、色つやもよく/その悪事には限りがない。/みなしご

の訴えを取り上げず、助けもせず、/貧しい者を正しく裁くこともしない>と記されています。それに対し

てエレミヤは、<これらのことを、わたしは罰せずに/いられようか、と主は言われる。/このような民に

対し、わたしは必ずその悪に報いる>(29節)と語っているのです。このところは、地方聖所を廃止し、聖

所をエルサレムに統一するというヨシヤ王の宗教改革の進展に伴ってナショナリズムの興隆が起きた社会の

不正と腐敗について批判しているところです。<廃止された地方聖所の財産はどうなるのか。職を失った祭

司の身分はどうなるのか。中央集権化の利益は、だれの下にあつめられるのか。大きな変革の目標として掲

げられているスローガンの陰で、権力と富を握る者は、目前の利益を追って不正を行っていた>(木田)の

でしょう。その中には職業的な預言者も祭司も含まれていたと思われます。そのような者たちは、国の将来

をどのように考えているのか。神は必ず、このような悪に対して報いられると、エレミヤは厳しく警告して

いるのであります。

・今日の箇所でエレミヤが示していますイスラエルの民の現実は、現在の日本社会にも通じているように思

われます。私たちの多くは消費文明の中で過剰な欲望に支配されていて、神の創造世界に一人の被造者とし

て、自然の恵みを与えられて、その被造者の祝福を生きているかと言えば、そうではありません。そのよう

な人がいたとしても、ごく一部に過ぎないでしょう。圧倒的に多くの人々は、人間がつくり出した高度資本

主義社会の中で、資本の横暴の犠牲になり、多くのお金を求めて彷徨っているのではないでしょうか。そし

てその多くのお金を得ることのできるのは、一部の特権階級の人びとであって、特に現在は格差が広がって、

一部の大金持ちと圧倒的に多くの貧困層を、この社会が生み出しているように思われます。

・<籠を鳥で満たすように/彼らは欺き取った物で家を満たす。/こうして彼らは強大になり富を蓄える。

彼らは太って、色つやもよく/その悪事には限りがない。/みなしごの訴えを取り上げず、助けもせず、/

貧しい者を正しく裁くこともしない>と、エレミヤがいている現実が、まさしく今日の私たち日本社会の現

実ではないでしょうか。個人としての富者が悪事を働いているわけではないとしても、社会のシステムが全

ての人に正義と公平を貫くものでないために、その社会のシステムの悪によって、私たちの中に格差が増

大しているのです。

・その中で苦しむ「小さくされた仲間の方々と共に」、神の創造世界の中で、被造者に与えられている祝福

を回復していきたいと思います。昨日は神奈川教区の平和集会で、金井創さんから「沖縄の今が示すこと~

沖縄から見る戦後70年」~という題で講演を伺いました。その平和集会のチラシの呼びかけで、金井さんは

このように訴えています。「沖縄の辺野古では新基地建設を阻止するため、連日海兵隊基地ゲート前座り込

み、海上行動が続いています。昨年からのこの行動で警察機動隊によって排除され、海上保安庁によって何

人もの人が怪我を負わされています。そうまでしてその現場にふみとどまるのはなぜか。それは一時間でも

半日でも作業を遅らせることによって全国の人々が立ち上がるのを待っているからです。辺野古の現場は一

地方の課題ではありません。日本の民主主義が問われ、あらゆる差別・抑圧に抗する闘いの象徴でもありま

す」と。私たちは辺野古の闘いに連なり、<みなしごの訴えを取り上げず、助けもせず、/貧しい者を正し

く裁くこともしない>権力者がつくる社会でも、軍事力による支配・被支配の社会でもなく、神の創造世界

にふさわしい、命与えられたすべての者が、互いを認め合い、労り合い、支え合い、分かち合って生きる神

の愛を具現する社会をつくる神の創造の働きに参与していきたいと願う者であります。