「背信」エレミヤ書8:4-13、2015年11月22日(日)船越教会礼拝説教
・私は、昨年の今頃、北海道の東部をツアー旅行しました。知床、網走、釧路湿原などを回ったときに、
釧路丹頂鶴自然公園に行きました。そこで丹頂鶴の群れを見ることができました。数羽が群れて空を飛
ぶ丹頂鶴の姿は雄大で、美しくありました。しかし、この釧路丹頂鶴自然公園にいる丹頂鶴は渡り鳥で
はありません。一年中そこに留まっている、留鳥の丹頂鶴ということでした。丹頂鶴には、一定の場所
に留まっているものだけでなく、いろいろな場所を漂っている標鳥もいるそうです。北海道にいる日本
の丹頂鶴は、留鳥、または漂鳥で、冬は阿寒町、鶴居村などの人里近くで越冬し、春から秋は釧路湿原
から野付半島を経て北方領土まで繁殖分布すると言われています。渡り鳥の丹頂鶴は、ユーラシア大陸
のアムール川中流、沿海州南部、中国東北部に繁殖分布し、朝鮮半島、中国東部に渡って越冬すると言
われています。同じ鶴でも、アネハヅルというツルは、ヒマラヤを、標高が七〇〇〇~八〇〇〇メート
ルという大変高い山の峰々を渡るそうです。白い山肌を背景に数千羽、数万羽の鳥たちが通過していく
姿は、じつに荘厳な光景と言われます。同じように、鹿児島県の出水(いずみ)には、毎年一万羽以上
のツルがアジア大陸から渡って来るそうです。そのような鶴は、何千キロ離れた場所を行ったり来たり
しているのです。立ち去って行った鶴が、一年経つとまた必ず戻って来るのです。不思議な事ですが、
自然の定めというか、法というか、そういう定めに従って渡り鳥は生きているのです。
・今日司会者に読んでもらいましたエレミヤ書8章7節には、<空を飛ぶこうのとりもその季節を知って
いる。山鳩も燕も鶴も、渡るときを守る>と記されています。ここでエレミヤは、立ち去っていくが、
必ず戻ってくる渡り鳥を例にして語っているのです。その中に「鶴」が出てきます。聖書辞典によれば、
<つるは寒いとき南方に行き、ベエルシバの荒野などに、一時休息するが、それから更にアフリカに行
き、そこで越冬後、3月末から4月ごろには、時をまちがえずに、聖地に戻って来る。アフリカから紅海
を横切って渡って来る鶴の大群はおびただしく、時として2,000羽以上にも及び、あの大きな翼で全海域
をおおってしまうほどである>と言われています。
・渡り鳥が、一つの場所から他の場所へ立ち去り、また一年経つと元の場所に必ず戻って来る。立ち去り
っぱなしではない。その渡り鳥の習性というか本能に見られます、驚くべき自然の秩序に、古代人は私た
ちよりはるかに強く、神の神秘に満ちた秩序を認識していたのでしょう。渡り鳥はいつも正確に自分の故
郷に立ち戻ります。それに反して、エレミヤは、<しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない>(7節)
と言うのです。ここでエレミヤは(神のお造りになった)自然の秩序に従って、立ち去っては、戻って来
る渡り鳥のように、イスラエルの民は神の定め、秩序を知ろうとはしないことを問うているのです。同じ
預言者イザヤは、牛やろばと比べて、イスラエルの民の無知を叱責して、このように語っています。<牛
はその飼い主を知り、/ろばはその主人のまぐさおけを知る。/しかしイスラエルは知らず、/わが民は
悟らない>(1:3、口語訳)と。鳥や動物は自然をありのままに生きています。けれども、私たち人間は
鳥や動物とは違います。私たちは、神に向かって創られた存在です。従って神との呼応関係の中で、神へ
の応答が求められています。しかし私たちの神への応答は、自分から主体的に喜んでする応答であって、
鳥や動物たちのように自然と本能による機械的な応答ではありません。神は機械仕掛けの人形として私た
ちを創造したのではありません。自由意思を持った神の似姿に私たち人間を創造されたのであります。神
の御心が、私たちの主体的な神への応答を通して私たち人間とこの世界の中で実現成就する道を、神は選
ばれたのです。私たち人間が、互いの尊厳を大切にし合って、互いに愛し合うことによって、神の愛が私
たちを通してこの世界に現れるためにです。けれども、エレミヤが目の前にしたイスラエルの民は、その
ような「主の定め」を全く無視して、自分のために自由意思を悪用して、神への応答を捨て去り、その関
係を断ち切って、自己追求の道にひた走りに走って行くのです。
・<倒れて起き上がらぬ人があろうか。/道を間違えて戻らぬ人があろうか。/なぜ、この民は間違った
途を歩き続け、/偽りに固執して帰ろうとしないのか。/わたしは耳をすまして、聞いた。/彼らは虚偽
を語り、/ひとりもその悪を悔いて/「何ということをしたのだ、わたしは」/と言うものはない。/み
な戦場に突進する馬のように/それた道をつっ走って行く>(4節b~6節、関根訳)と。ここに<みな戦場
に突進する馬のように/それた道をつっ走って行く>と言われているのです。間違った途を、元に戻るこ
となく、ひたすら走り続けるイスラエルの民は、後にバビロニアによる国家(南ユダ)の滅亡と、主だっ
た人たちのバビロン捕囚という破局的な事態に至ります。
・私たちの日本の国も、1931年(昭和6)9月18日,奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)で
満鉄線路の爆破事件を契機として始まった日本軍の中国東北への侵略戦争から始まった15年に及ぶ日中戦争、
太平洋戦争によって、1945年に敗戦という破局的な事態に立ち至りました。その時代の日本は、ひたすら間
違った途を走り続けたのです。まさに「なぜ、この民は間違った途を歩き続け、/偽りに固執して帰ろうと
しないのか。・・・彼らは虚偽を語り、/ひとりもその悪を悔いて/「何ということをしたのだ、わたしは」
/と言うものはない。/みな戦場に突進する馬のように/それた道をつっ走って行>ったのです。その間ご
存知のように1941年に国家の圧力によって日本基督教団が成立し、この私たちの教会、教団が、少なくとも
ナチズムに否を宣言したドイツの告白教会のようなものも生み出すことなく、全面的に天皇制国家の戦争協
力に邁進したのです。
・今日のエレミヤ書の箇所には、8節、9節に、「主の律法を・・・・書記が偽る筆をもって書き、それを偽り
とした」と記されています。これはどういうことかといいますと、本来モーセを介してイスラエルの民に与え
られた十戒である律法は、かく生きよ、そうすれば祝福を与えられる、という契約の民イスラエルに対する神
の言葉、呼びかけです。しかし、エレミヤは、この神ヤハウエの呼びかけと、それに対する応答としての真の
契約祭儀(神礼拝)を誤らせ、偽りとしているのは、律法を記す者たちによって文書化された供犠規定である
と言っているのです。このことは福音書のイエス伝承を思い起こすと分かり易いと思います。マルコにおる福
音書7章1節以下です。そのところを読んでみます。<ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちば、エルサレ
ムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事
をする者がいるのを見た。―――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔からの言い伝えを固く守って、
念入りに手を洗ってからでないと食事せず、また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をし
ない。そのほか、杯、銅の容器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんあ
る。―――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言
い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」。イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちの
ような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。「この民は口先でわたしを敬うが、/そ
の心はわたしから遠く離れている。/人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしを崇めている」。あ
なたは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分
の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、「父と母を敬え」と言
い、「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」とも言っている。それなのに、あなたたち
は言っている。「もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、
つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ」と。こう
して、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じことをたくさん行
っている」。>(マルコ7:1-13)。このようにイエスは、ファリサイ派の人々や律法学者によって、神の言葉
が人の言い伝えによってないがしろにされていることを鋭く見抜いているのです。エレミヤも同じだったので
す。申命記や出エジプト記の契約の書(20:22~23章:33)の供犠に関する諸規定や、後の祭司文書に受容さ
れた儀礼規則が、ヤハウエ宗教の基本性格を偽らせるものと見做されているのです。
・ですから、政治も宗教も<みな戦場に突進する馬のように/それた道をつっ走って行く>のを、止めること
はできませんでした。これが聖書の言う「罪の問題」です。的を外してしまっている人間の悲惨な状況です。
自分たちの生活の中から神を追放し、人間中心主義によって始まったヨーロッパ近代社会が世界に広がって、
現在の世俗主義的な社会が、特に先進諸国に広がっていますが、世界大の人間の悲惨な状況は、このヨーロッ
パ近代社会の結果であります。今の難民問題も、イギリスやフランスやドイツによる植民地支配が生み出し
たもので、ヨーロッパ諸国にとっては、自分の蒔いた種子の成長が現在の難民問題に結実していることを直
視しなければなりません。この世界大の人間の大きな罪の中で、私たちも小さな罪を犯し続けているのかも
しれません。
・ エレミヤは神がイスラエルの民に対してこのように語っていると、8章13節で語っています。<主は
言われる。ぶどうの木にぶどうはなく、/いちじくの木にいちじくはない。/葉はしおれ、わたしが与えた
ものは、/彼らから失われた>と。旧約聖書の創世記の人間創造物語の中で、神は土塊から作ったアダムに、
神の息を吹き込んで、命ある人間に創造したと言われています。私たちの中に吹き込まれた神の息は、私た
ちの中で失われてはいないでしょうか。この神が私たちに与えてくださった生命力、人間を獰猛や野獣とし
てではなく、神と隣人との関係としての間を互いに大切にし合って生きる生命力としての神の息を、私たち
は失ってはいないでしょうか。
・エレミヤの預言を、現代の世界の権力者たちに、富める者たちに当てはめて読むだではなく、私たちの教
会にも、私たち自身にも当てはめて読まなければなりません。アウグスチヌスは、神が人間を創造したのは、
「汝は汝に向けて創造し給うた」と言い表したと言います(ATD218頁)。イエスが、何を食べようか何を飲
もうかとか、何を着ようかとか思い悩む弟子たちに対して、野の花、空の鳥を指し示して、神はこれらのも
のがあなたがたに必要なことをご存知であると言って、「何よりも神の国と上野木を求めなさい。そうすれ
ば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)と言われたことを思い起こしたいと思いま。神
を信じ、神を持ち出すことなく、その与えられた生を生きることのできるように、私たちすべてに注がれて
いる神の息である聖霊が私たちの全身に満ち溢れますように。