なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

土筆の群生 鶴巻通信(9)2021年3月30日

土筆の群生 鶴巻通信(9)2021年3月30日

 

3月が終わろうとしています。この月は、私にとっては昨年から特別な月になりました。連れ合いが帰天したのが昨年の3月3日で、彼女の誕生日が3月19日だからです。彼

女の帰天1年を憶えて下さって、お花をおくってくださった方、はがきやお手紙をくださった方には、心から感謝します。1日ごろからヤマト便で、また近くの花屋が直接に、日によっては二度、三度とお花が届きました。中には直接届けて下さった方もありました。彼女の写真の周りには、その沢山のお花がいっぱいでした。しかし、ほぼ3週間ほどで生花は全部枯れて今はありません。しかし、その時いただいた白とピンクの胡蝶蘭の鉢だけは花をつけて残っていて、昨年帰天した時にいただいた枯れない白の胡蝶蘭と共に、花の好きだった千賀を今も喜ばせてくれています。

19日の誕生日には娘と二人で、千賀を想い出しながら夕食を共にしていましたが、食事中に生前千賀が信頼していた神戸の友人から、千賀の誕生日を憶えて下さって、お電話をいただきました。また、19日には、千賀が国会前の辺野古新基地建設反対座り込みで友人になった方から、花が咲いた桜の木の鉢植えで、その鉢に桜の花を見上げた猫が描かれている、小さな紙の置物を、多色のサインペンで、「Happy Birthday、2021.3.19. 千賀さんに出会えたことを心から感謝します」と書いたメッセージのカードを添えて贈ってくださいました。ありがたいことです。

 

以前の鶴巻通信に土筆一本だけの写真を掲載しましたが、数日前に、土筆の群生を写真に撮りましたので、土筆は千賀が春になると楽しみにしていましたので、それを下記に添付します。

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たまたま今日の東京新聞朝刊を読んでいたら、西田幾多郎について藤田正勝さんという京都大学名誉教授の方が書いていた文章に出会いました。その中に、早世した娘の記念に出版した『国文学史講話』の序文を、その著者藤岡作太郎は同じように娘をなくした友人である西田幾多郎に依頼したのだと思いますと言って、著者は西田幾多郎が書いたその序文を紹介しています。その序文の中で西田は、「今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりして居た者が、忽ち消えて壺中の白骨となると云うのは、如何なる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるならば、人生ほどつまらぬものはない、ここには深き意味がなくてはならぬ」と記しているそうです。この言葉を受けて著者はこのように述べています。「もし愛する子供がたまたま亡くなったとか、理由なく亡くなった、あるいは運命で亡くなったというのであれば、これほどつまらないものはないというのです。それでは納得することができないという気持ちを西田はここで、『ここには深き意味がなくてはならぬ』と表現しているのです。その深い意味」が何であるのか、この問いに答えることは決して簡単なことではないと思います。西田自身も答えを見いだすことができなかったのかもしれません。それでも『深き意味がなくてはならぬ』と言わざるをえないところに、愛する者を失った人の率直な、そして抑えがたい気持ちが表明されていると思います」と。

この「西田幾多郎 その人としての魅力 下」(藤田正勝)を読んで、千賀の帰天一年と重なって、身に染みるものを感じました。