船越通信、№507 2022年3月13日(日)北村慈郎
- 6日(日)は午前6時半ごろメールを配信しました。日曜日は独りで自宅分散礼拝をしていますが、このところ後はぼんやりと過ごすようになっています。土曜日の夜の睡眠が十分でないことが多いので、頭も体も動かないからです。3月3日は連れ合いの千賀の帰天2年になりますので、千賀のことを覚えていてくださり、お墓に行ってくださった方、わざわざ電話や手紙を下さった方、お花を送って下さった方がありましたので、お礼のハガキを書こうとしながら、それも手に着きませんでした。結局、7日(月)から10日(木)まで前立腺の検査入院で、自分の病気のことで時間がとられましたので、お礼のハガキは11日(金)になって書いて投函しました。一人の方には電話でお礼を述べました。そういう時期でしたので、改めて肉体として連れ合いがいない喪失感にとらわれてしまいました。
- 7日(月)は、朝8時過ぎに、PCR検査の唾液を絞り出して検査の容器に入れて、鶴巻を出て秦野日赤病院に行きました。8日(火)―10日(木)の前立腺の検査入院のためです。新型コロナウイルスの感染がはじまってから、私にははじめてのPCR検査です。受付を済ませ、検査室に唾液の入った容器を持っていき、泌尿器科の外来の受付を済ませて、まだ診察前の時間でしたので、待合の椅子に座って待っていました。診察が始まると、まず最初に私が呼はれ、主治医は私の体調と明日からの入院の確認をしただけで、問診は終わりました。会計を済ませ、病院を出たら、空車のタクシーが止まっていましたので、タクシーで秦野駅まで行きました。秦野駅に着いたのがまだ9時半過ぎでしたので、そのまま船越教会に行くことにしました。支援会の関係で先日郵送した通信第27号を15部送って欲しいという教会がありますので、船越教会にある通信を持ってくるためです。11時過ぎに教会に着くと、玄関は開いていましたので、支援会通信と教会に来ている郵送物をもって、すぐに引き返してきました。教会の玄関が開いていたのはSさんが庭で作業してくれているからだと思い、Sさんを探しましたが見当たらなかったので、そのまま帰って来てしまいました。鶴巻に帰ってから、支援会通信第27号15部の発送作業をすませました。10日(木)に退院してメールを開けると、Sさんから玄関に置いていた教会の郵送物がなくしてしまったと、私に謝罪のメールが来ていました。すぐにSさんにメールして、私がSさんに声をかけられずに持ち帰ったことを伝え、謝罪し、安心してもらいました。
- 8日(火)は、午前中、弘法の里日帰り温泉で体をきれいにし、入院の準備をして、必要なものをバッグに入れました。入院は午後1時半受付でしたので、簡単に昼食を取り、12時半過ぎにマンションを出て、鶴巻温泉駅から秦野駅まで小田急で行き、秦野駅からはタクシーで病院に、午後1時半少し前に着きました。入院受付の前には数人すでにいて、順番のカードをとり、受付の時を待ちました。私の後から次々にそのカードを取る人がいて、この日私と同じように入院する人が結構いることが分かりました。待ち時間は比較的短くて、入院の受付が出来、病棟のナースステーションに行くように指示され、4階東病棟412号室に案内されました。4人部屋でしたが、私が最初で、夕方までに4つのベットにそれぞれの病者が入りました。二泊三日の入院でしたが、同室の3人の方とは、ほとんど言葉を交わすこともありませんでした。それぞれカーテンを引いて区切られているだけですが、その空間に4人がいるのは、相互に結構近いのですが、実際は何となく疎遠な関係でした。相手の病状を思いやっているのか、なかなか気軽に声掛けができない状態でした。時々それぞれつぶやく言葉は聞こえるのですが、言葉を交わし合う場面は、一度もありませんでした。帰天した連れ合いの千賀は合計50日近く入院していました。千賀は他者を気遣う人でしたし、面会者も多いということで、本人の希望で個室にしましたが、今回私が経験した4人部屋の何とも言えない重い雰囲気を避けたかったということもあったかも知れません。
- 9日(水)朝9時頃から、前立腺の組織を取って調べる検査のための手術をする部屋に案内され、主治医の言うとおりにして手術を受けました。気が付いたら点滴状態で病室に戻っていました。その時はまだぼうっとしていましたが、徐々に意識もはっきりしてきました。その日は朝と昼は食事なしでしたが、水だけは飲むように言われ、夕方まで病室のトイレに行くだけで、ベットにいました。夕食は私だけ連絡がうまくいっていなかったようで、他の3人よりも大分後になりましたが、完食し、夜には本を読めるくらいに、ほぼ通常の状態に戻ったように思われました。
- 10日(木)は、朝食後主治医が顔を出してくれて、私の状態を確認し、退院の許可を出してくれました。10時頃病室を出る時に、病室にいた方に挨拶をして、受付で会計を済ませ、娘の車で二番目の息子が迎えに来てくれていたので、鶴巻のマンションに帰って来ました。
- ウクライナではロシア軍の砲撃によって病院も破壊されていると、テレビで報じていました。その病院が産婦人科であったようで、爆撃で瓦礫となったところをベットに横たわっている妊婦を運んでいるところが映っていました。3日間安心して入院してきた私は、この光景に慄然とさせられました。入院中新城郁夫の『沖縄に連なる~思想と運動が出会うところ~』を読んでいました。新城は、沖縄の基地の本土引き取り論に反対しています。基地は空間的な問題にすり替えることはできないということではないかと思われます。軍事基地は何処に行っても人の命を奪うためのものであることには変わらないからです。すべての基地の撤去、それしかないと、新城は言っているように思われます。今年は沖縄の本土復帰50年です。沖縄の本土復帰は何であったのか。アメリカによる本土の再占領化ではなかったか。本土復帰まで沖縄はアメリカに占領されていましたが、本土復帰によって本土もアメリカによる占領下に置かれたのだと言うのです。現在の日米軍事同盟の強化は、まさに沖縄・本土がアメリカの占領下に置かれていることの証左ではないでしょうか。すべての基地撤去、憲法9条による世界平和をめざさなければならないと思います。