なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(134)復刻版

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(癸隠械粥法徂﨧鑒任魴悩椶靴泙后


        黙想と祈りの夕べ通信(134[-29]2002.4.21発行)復刻版

 アフガニスタンにおける部族間の軋轢、衝突は、以前も今もロシアやアメリカなどの外部勢力の介入によって複雑になっていますが、そういう外部勢力がなくても、本来アフガニスタンの国が抱えている負荷だと思われます。本当はすべての外部勢力が手を引いて、人道的な支援に限定し、諸部族間の対立、抗争という痛みの中から妥協が生まれて、部族間の調整ができるようになったときに、アフガニスタンに平和が訪れるのではないでしょうか。

パレスチナイスラエルの抗争に関して、パレスチナ人にとりましては、自分たちが住んでいた所に、突然イスラエルという国家が出来て、多くのパレスチナ人が難民となってしまったということですから、アフガニスタンとは違う難しさがあるように思われます。このアフガニスタンパレスチナイスラエルの問題を考えていますと、人間が人間を殺し合うことの恐ろしさにたじろいでしまいます。

親鸞について書いた吉本隆明の本の中に、人が人を殺すことについて、以下のように記されていました。「親鸞は『人間というのは、何かの業縁、因縁、あるいは動機があれば、人を殺したいと思わなくとも、百人、千人殺すこともある。しかし動機がなければ、人間というのは、一人の人間さえ殺すことはできないものだ』」と語ったというのです。人間が人間を殺し合う契機となる業縁、因縁がなくなって、みんなが一つになる世界の象徴として、今日朗読した聖書個所の一つヨハネ福音書10章16節に、「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれて、一つの群れになる」とありました。囲いの中の羊と外の羊が一つの群れになるというのです。私は、このイエスにある未来を信じて、今ある自分の場所からどんなにささやかであっても自分なりに応答して行きたいと思っています。

 続いて一人の姉妹の発言がありました。つい最近名古屋に行って来た。かつての子どもの同級生の母親二人と別々に会い、以前住んでいた近所の友人二人と別々に会って来た。子どもの同級生だった母親の一人は、転勤族で今は九州だが、名古屋の方と結婚したお嬢さんのお産で名古屋に来て一カ月以上になると言う。お嬢さんのお産が難産で、帝王切開での麻酔でパニックになり、その後心配で付き添っていたが、そろそろ帰ろうと思うと言っていた。また、近所だった友人の一人は、今回予定していなかったが、会って話すことになった。息子と10年間付き合って、結婚した連れ合いが、結婚して2カ月目に発病してこの3月に癌で亡くなったと言う。仏式で自分の家から葬式を出したと、仏壇の前で彼女は話してくれた。そして、もう一人の近所だった友人は、乳がんから肺がんになって、現在も闘病生活を家で続けている方である。三人とも大変な状況にある。自分が出来ることは、それぞれを覚えて祈ること以外にはない。人間の歩みは明日何が起こるか分からないという実感を持ち、祈る課題を与えられて、名古屋から横浜に帰って来た。

 別の姉妹は、今朝早く起き、庭にあったクリスマスローズがなくなっていることに気づいた。以前一人の兄弟が、祈祷会で信仰の先達の話をして、いつも喜び、感謝し、祈りなさいという聖書の言葉を引用された。そのときは、そうだと思った。けれども、今朝の出来事に出会って、心が乱れた。礼拝に来て、たまたまその祈祷会で話した兄弟の横の席に座れた。礼拝が始まるまで時間があったので、今朝の自分の思いを伝えて、兄弟と話すことができた。兄弟は自分が抱えている重荷のことを話してくれた。花をなくしたことを通して、兄弟からお話しを聞くことができ、今朝の自分の思いが打ち破られ、心から感謝して礼拝を始めることができたのは、ありがたかった。


      「真理のことばによる再生」(『ルターによる日々のみことば』より)

 父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出し てくださったのである。
                              ヤコブ1:18


 主が天からわたしたちのためにしてくださった最初の、しかも、最大のことは、主がわたしたちを生み出してくださり、主の子と世継ぎにしてくださり、それによって、わたしたちが、「神から生まれた子」となり、そう呼ばれるようになったことです。どのようにして、また、どのような手段によってそれが起こったでしょうか。それは真理のことばによってです。

 このようにして、わたしたちは主の創造の初穂になりました。それは新しくはじめられた創造であり、神のみわざであります。こうして主は、新しい創造を世界と人類から区別されます。

 神は新しい被造物をご自分のためにお造りになりました。それは、主によって造られ、人間の助けやわざなくしてつくられた主のみわざでありますから、そう呼ばれるのです。このためキリスト者は神の新しい被造物と呼ばれます。それは他のあらゆる被造物とその働きのほかに、そしてそれらの上に、神ご自身によって造られたものであり、しかも、この世においてその創造は端緒についてばかりのものです。主はこれが完成される時まで、日ごとそのみわざを続けられ、ついに、それは太陽のように輝く純粋の信仰深い被造物となり、罪も弱さもなく、ただ神の愛に燃えあがるものとなります。

                                   1536年の説教から