なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(66)

   
     マルコ福音書による説教(66)、マルコによる福音書15:33-41
               

・「イエスは大声を出して息を引き取られた」(37節)。口語訳では、「イエスは声高く叫んで、ついに息を引き取られた」となっています。

・「死の叫び」を挙げて死んでいったイエスは、そこで何を見、何を祈り、何を訴えられたのでしょうか。マルコによる福音書の著者は、イエスの十字架の死を「神に見捨てられた者の死」として描いています。34節に、十字架上でイエスが叫んだ言葉が記されていますが、それは、詩編22篇の「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉であったというのです。

・ひとりの人間の異常な死の叫びには、私たちの正常と見られている生を、根底から揺り動かす問い掛けが秘められています。少し古くなりますが、1970年前後の学生運動が高揚した時期、京都大学の教師でもあり、文学者でもあった高橋和巳が編集しました『明日への葬列』という本があります。その本の序文に、高橋和巳は、「死者の視野にあるもの」と題して次のように書いています。

・「何の雑誌でだったろうか。かつてイタリアの法医学者が殺人事件の被害者の眼球の水晶体から、その人が惨殺される寸前、この世の最後に見た恐怖の映像を復元することに成功したという記事を読んだことがある」という書出しではじまって、高橋は読者に「死者たちの最後の映像なるもの」に注意を向けさせて、「それが死後にも残存するか否かは別として、立って歩く動物である人間が見落としがちな、地面に打ちのめされて、一番低い所から上を見上げる視角になるはずだ」という。

・イエスの場合は、十字架上での死ですから、地面に打ちのめされた者の死ではありませんが、虐殺された者の異常な死という点では、同じでしょう。続けて、「そしてもし死者がこの世で最後に見た映像を復元しうるとすれば、その映像こそなによりも鮮明に現在の人間関係の在り方、その恐ろしい真実の姿を、象徴するはずなのである」と言っているのであります。

・いじめによる子どもの異常な死が後を絶ちません。しばらく前から、大津市でのいじめによる中学生の自殺が問題となっています。もう大分前になりますが、中学生の子供の家庭内暴力に耐えかねて、父親がその子供を金属バットで殺してしまったという事件がありました。逆に子供が金属バットで父親を殺したという事件もありました。女性が襲われて殺されるという事件も後を絶ちません。交通事故死や自死も大変な数です。

・私たちは、異常な死者たち(事故死、殺人、自殺…)を毎日多く出しながら、死者たちの叫びを無視し、無感覚になっているのではないでしょうか。むしろ、私たちの目をその叫びからそらす意図的な力によって無感覚な人間に私たちが造られているのではないかとさえ思えます。機械的に繰り返される日常の生活と過剰な情報の刺激などによってです。そして、私たち自身の中から人間の心が失われていくように思われます。

・私たちは、クサイものにはふたをして、見てみぬふりをして通り過ぎて来たのではないか。傷ついている旅人を見て、通り過ぎていったサマリヤ人の譬えに出てくる祭司やレビ人のように、とにかく自分の仕事がありますから、まずそれを果たさなければなりませんから、と言い訳して。こういう見ない人間の再生産は、私たち人間から心を失わせ、機械とまったく変わらない人間にさせないではおかない。疑いつつ、試行錯誤しながら、真理を共に追い求める途上で、互いに助け合い、支えあってゆく共同人間ではなく、個々のつながりがうすくなって、他者の痛みも感じられなくなったならば、そこでほくそ笑んでいるのはマモン(富の神)ではないか。

キリスト者は、イエスの十字架(死の叫び)に耳を傾ける者であります。そこから出発することを知らされている者であります。では、十字架のイエスの叫びは、私たちを何処に導いて行くのでしょうか。

・マルコはイエスの叫びを詩編22編の1節によって理解しています。「わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになったのですか」。この言葉をもってイエスの叫びを説明したマルコは、死の叫びを挙げるイエスの眼差しの中に、ただ彼を殺した者たち(ロ-マ、ユダヤの支配層、扇動された群衆、逃げ去った弟子たち)への恨みだけを見てはいない。むしろそのような怨念らしいものを、殆どイエスの死の叫びの中には見ていないのである。これは不思議なことです。

・イエスは、「わが神、わが神、…」と、父なる神に向って叫んだと言います。彼を死へと追い詰めた者たちへの恨みの言葉ではありません。「神に見捨てられた者」として、イエスは十字架上に死んだ。このイエスの死の叫びは二つの側面から見られます。一つは、激しい「怒り」として。「何故…」という、受け入れがたさを表す言葉には、彼を殺した者とこの世の力と、その支配下に生きる者たちへの激しい否がこめられています。彼を殺した人たちの、この世における存在様式を認めない否であります。その意味で、十字架のイエスは、私たちを根底から審く方であります。その審きは、力や業績という偶像(モルトマン)にとりつかれて、人を助けようとしない者に向けられているのであります。

・自分を保持する人、自分の生を保とうとする人は、命を失う。

・同時に、もうひとつの面から見ると、その否の結果としての死を、彼を十字架につけた者たちに代わって引き受けているのです。死すべき者は私たちであって、イエスではない。神はその愛する独り子であるイエスを見捨てる程に、最も愛する者を引き裂く程に、本来死すべき者のために、何の負い目のないイエスをもって肉迫したもうのであります。イエスの十字架を目撃した人、そしてそれを伝えられた者たちが見たのは、そのような最も愛する独り子を与えたもう程の神の愛ではなかったでしょうか。

・イエスの方を向いてそばに立っていたローマの百人隊長が、イエスが息を引き取られるのを見て、「本当に、この人は神の子であった」と言ったとあります(39節)。
この百人隊長は、十字架死という悲惨な死を引き受けて息絶えたイエスの眼差しの中に、不条理な死を強いられた人の自分を殺した者達に対する睨みつけるぞっとするような恨みの眼差しに優って、アバ父よと、神に向かって叫び、祈るイエスの不思議な眼差しを見てとったのではないでしょうか。イエスを殺した人々のあり様への怒りと否と共に、彼ら彼女らのそのような罪の存在を背負って、一心に神に「わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになったのですか」と祈る十字架上のイエスです。そこから、百人隊長の「本当に、この人は神の子であった」という告白が引き出されてくるのです。この告白をする者は、自分の中に死と再生を経験しているように思われます。

・十字架のイエスによって私たちは、激しい否をつきつけられている自分、死すべき己れを知らしめられると共に、そのような者を新しく造り変えるために私の代わりに死んでくださったのだという神の御心に気づかされるのです。その前に立つ者に、このような180度の転換を引き起こす出来事がイエスの十字架ではないでしょうか。

・その時、十字架のイエスは復活の主として、新しく造り変えられた者の導き手として、私たちを招いていることを知ります。そして私たちは、十字架と復活のイエスとの関わりの中で、「見ないで通り過ぎる」者として、何をやってもダメだというあきらめから解放されていくことを体験するのではないでしょうか。見捨てられた者の叫びや声に耳を傾け、共に生きて行くようにと。

・とすれば、十字架のイエスの叫びは、私たちに新しい出来事を生起させる。そして復活の希望を指し示す。他者を見捨てる者は、自分も見捨てられる。しかし、見捨てられる者と共に生きる者は、死を勝利にかえる希望に生き得るのである。

・十字架上で叫ぶイエスが、復活の主として私たちの現実のただ中に立ちたもうことを憶えて、生きる者でありたい。