なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(22)

マルコ福音書による説教(22)  マルコによる福音書6:14-29
             
・ ・今日は、マルコによる福音書6章14節以下からイエスのことを考えてみたいと思います。福音書の中には、直接イエスの語られた言葉や行われた行為として物語を叙述している部分と、間接的に人々の反応や態度を媒介として、イエスがどのような方であるかが語られている部分があるように思われます。今日のテキストは、後者(間接証言)に属するものです。この部分はその前が「弟子の派遣」であり、後が「弟子の帰還」になっています。
・   今日の箇所は、そのようにイエスの名が、その権威と共に人から人に伝えられ、ついにヘロデ・アンティパスの耳に入ったとき、ヘロデがどのような反応を示したかが描かれています。つまり、人々の中に、イエスは誰であろうかという問いがおこったこと、ある人々は、バプテスマのヨハネの甦りと言い、ある人々は、エリヤだといい、又或る人は昔の預言者のような預言者だと言ったというのです。ここで、人々はイエスの驚くべき言行に接して、何とかしてイエスを自分たちの了解可能な範疇によってとらえようとしていることがわかります。あの洗礼者ヨハネの再来ではないのか。旧約のエリヤか。昔の預言者の一人かと。これらの一人一人について、人々はほぼ彼らの頭で了解できる像をもっていたのでしょう。しかし、彼らにとってイエスはどうもよく分からない、把え切れないものがあったのでしょう。そこで、イエスは人によってそれぞれ勝手にバプテスマのヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だと言われたのでしょう。結局イエスは誰か、という問いに、誰一人正しく答えられなかったわけです。
  この事実は一体何を物語っているのでしょうか。私には、このことがイエスと私たちがどのように対すべきか、つまりイエスと私たちの関係の在り方を示唆しているように思われてなりません。すなわち、イエスの前に立つ時、どんな人間でも、イエスは誰かと問わざるを得ないし、その問いを自分の了解できる像にあてはめて理解しようとするわけですが、しかし、そういう理解の仕方では、本当にはイエスを把えたことにはならないということです。私たちはイエスに対して、人間が持つあらゆる手段を用いて、知識、感覚、直感、体験によって、了解しようと近づきます。福音書にあらわれる群衆のように、弟子たちのように、学者のように。彼らも真剣にイエスを理解しようとしたのでしょう。しかし、私たち人間の方からの接近がその極みにおいても、イエスは私たちの了解をこえた方であり、「驚き」を越えて、了解しつくすことは不可能であるという事実を認めざるを得ません。イエスの前に私たちが立つとき、そこに生起するのは驚き以外の何物でもないからです。信仰とは、私たちの了解をこえたイエスに対する驚きをそのものとして受け入れることです。驚くべき方としてのイエスから、私たちとこの世のすべてを見直すことであります。
  ・ヨハネ福音書11章のラザロの復活物語で、マリヤとマルタの姉妹が出てきますが、その中でマルタに語ったイエスの言葉として、「わたしは甦りであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と、問いかけているところがあります。
 信仰とはこのイエスの問いかけに対する私たちの態度決定です。私たちは私たちに「あなたはこれを信じるか」と問いかけていたもうイエスに対して、「信じます。不信仰なこの私を助けてください」と応える以外にありません。しかし、そのような応答の中には、強い生命的な私たちとイエスとの結びつきが確かにあるのであって、そこに、イエスに対する信頼が生まれ、この世にあって私たちが触れる様々な思想や生き方に対して、それらによっても動かされることのない、確かさが私たちを支えるのであります。信仰は確信を生み、確信が私たちの進むべきイエスの道へと私たちを歩ませるのであります。
  ところで、この信仰は確信と共に認識をも生み出します。イエスは誰かという問いに対して、キリスト者は答えられないまま佇むのではありません。使徒信条によりますと、「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」と言われます。ここには、イエスの前に驚きをもってイエスを受け入れた者の信仰告白が表出されています。この部分については、バルトのハイデルベルグ信仰問答の講解を紹介しておきます。 「その造り給う世界に対するたた独りの真の神の主権に対応して、イエス・キリストを信じる民という彼によって召され、救われ、彼に対して義務を負う人々に対するただ独りのイエス・キリストの支配が存在する。彼において打ち立てられた神と人間との正常性が、同時にそのような人々を守り、結合することによって、彼は彼らの主である」(バルト、『キリスト教の教理』より)。
  この信仰告白は、私たちをあのひとりの方、イエス・キリストへと導いてゆくものです。それ以上でもそれ以下でもありません。「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」は、信仰の認識であり、この告白が私たちとイエス・キリストの生命的な関係を創り出すことはできません。そこへと私たちを導く導き手とはなり得ても、私たちの中に信仰を引き起こし、私たちをイエス・キリストを唯一の主とする確信を生み出すのは、活けるキリストご自身であります。人間が出来ることは、言葉と生活をもってその方を指し示すことだけなのであります。その方は人間を超えた方であり、そのような方として私たちを捕らえていて下さるのです。
  私たち人間の側からは、イエスの前に立って、イエスは誰かという問いの前に佇む以外にはありまません。その壁を私たちの側から超える力は、私たちの中にはありません。「信じます。不信仰な私をお助けください」という叫びをあげる以外に、何一つ私たちには出来ないのです。しかし、そこでこそ、そのようにして自分自身をイエスに明け渡す時、イエス・キリストが私たちの中心に立ち給うて、「私に従ってきなさい」という招きの言葉をもって、私たちに先立って歩み給う主となるのです。
  しばらく前から、そして今も、私たちの中には、イエスはキリストであるという信仰告白をめぐって、これを認めるか否かということが問題とされています。そういう問いの立て方そのものが不毛であって、重要なことは、私たちが心からイエスを私たちの存在と生活の中心に迎え入れているか否か、ということにあります。そして、そのイエス・キリストによって賛美と感謝の生をいきいきと生きているかに尽きます。己の敵をも愛し通された方にふさわしく、私たちの様々な人間関係の中で、信仰をもってイエスの愛に基づいて、日々生きているか。また信仰をもってイエスにある希望に生きているか。そういうイエス・キリストとの関係を基底にして自分自身の吟味を欠いたとところで、形式的にイエスをキリストと言うか言わないかをいくら問題としても意味がありません。むしろ、そういう厳しい自分自身に対する吟味がないところで、形式的に信仰告白を持ち出すことは、自己正当化につながり、信仰告白そのものを歪めることになるのです。
  今日この時代に生きている私たちは、この世の人々からキリスト者とは何なのか、この社会において、学校において、家庭にあって、一体何なのか。この社会が、職場が、学校が、家庭が要求する型に対して、どこまで主体性を発揮できるか。何だか、信仰と言っても、あってもなくても何も変わらないようだ。心のより所に過ぎないのだろうか。こういう視線と無言の批判に対して、私たちが確信をもって立つことが出来ないとするならば、その私たちの弱さをつくろってはなりません。他の運動に転嫁したり、言い訳したり、居直ったりしてはなりません。弱さを弱さとして謙遜に認めた上で、私たちは自分自身とイエスとの関係を点検すべきであります。その関係が希薄ではなかったか。イエスから離れて、ひとり歩きしていたのではなかったか。イエスご自身が私たちの中心に立ち給うならば、私たちはどんな批判に対しても、己を開き、受け取るべき点は受け取らなければなりません。
  さて、今日の物語の後半は、ヘロデがイエスのことを知って、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った(16節)という言葉に続いて、バプテスマのヨハネの死がどのような形で行われたかということが、物語風に述べられています。ある注解者によれば、このヨハネの死は、イエスの運命の予表として、ここに述べられているのだといわれます。或はそうなのかも知れません。しかし、私はここでヘロデがイエスのことを知って、自分が殺したバプテスマのヨハネが甦ったと言って、恐れたという点を考えたいと思います。
  ヘロデは、いわば真実の声としてのバプテスマのヨハネを、権力によって捕らえ、そして殺害しました。ヘロデと彼の取り巻き連中は、そういう権力にむらがる者たちです。権力と富が真実をねじまげた出来事として、ヨハネの逮捕と殺害を見ることができるのでしょう。そういう意味で、ヘロデは暗黒の使者といえるかも知れません。そして、この世はそういうヘロデと同様な人々が、そしてそれに追従する人々が陰に陽に支配しているように思われます。ヨハネのような真実に生きた人間が殺されてしまう。そういう暗い勢力を代表する者としてヘロデが登場しているのであります。
  そのようなヘロデに、イエスの名が知れた時、ヘロデが自分が「首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言って、恐れたということは、イエスの名によってあらわされているイエスの存在が、ヘロデをおびやかすものであったことを暗示しています。そして、このことは、イエスに驚いた人々の驚きの内容を、何らかの形で、規定しているものと考えることができるのではないでしょうか。つまり、私たちがイエスに驚くのは、ヘロデのような、或はロ-マ皇帝のような権勢に対してではないのであります。そうではなく、死んでいた者を生き返らせるイエス(ヘロデは、逆に生きている者を殺す力である)。病人をいやし、悪霊を追放し、ラザロやヤイロの娘を生き返らせる、イエス。無きに等しい者を、欠けがえのない存在へと甦らせるイエス。そういうイエスのうちに働く力に、聖書の人々は驚いたし、又私たちも驚くのであります。
  ヘロデは、自分の立場を守るために、バプテスマのヨハネを殺します(この物語では、自分から殺したのではないかのように語られていますが)。そして、その同じヘロデが福音書によりますと、他の諸勢力を代表する人々(大祭司、ピラト)と共同して、イエスを殺すのであります。イエスが何故殺されたのかは、イエスが彼らと同様に、この世的な権力者で、そのまま放置しておけば、自分たちの立場があやうくなるからではありません。イエスはこの世的な意味での権力者ではありません。この世の権力とは無関係な、そういう点からすれば、無力な存在です。しかし、それだからこそ、この世的な権力によってもどうすることも出来ない、生命(いのち)によって生きる者たちが、イエスによって立ち上がってゆくとき、ヘロデはロ-マに対する恐れとは、全く異質な恐れを持ったのでありましょう。この世の権力や富によらない、死をかえて命を創造する力、真実に基づく力、バプテスマのヨハネが指し示し、イエスにおいて実現している力はそのような力です。ヨハネ第一の手紙の著者は、「完全な愛は恐れを取り除く」と語っております。
  エスは、十字架につけられ殺されました。ヘロデやロ-マの権力がこのイエスの十字架と復活に、神の力があらわれていると、聖書は語っています。「あのような力が彼のうちに働いている」と、ヘロデをして言わしめたイエスは、今も生きた方として私たちを呼び集め、一つにし、この世にあって、その固有な名を啓示しようとしておられるのであります。イエスの名の下に集められた私たちがイエスの名を汚すようなことがないようにしたいと、願うものです。