なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

待降節第3主日説教・先駆者(ルカによる福音書1章5-25節)

12月11(日)待降節第3日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ高低のある地は平らになり、険しい所は平地になる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。」

イザヤ書40:4-5)

③ 讃美歌  12(とうときわが神よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-012.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編85編2-14節(讃美歌交読文93頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ルカによる福音書1章5-25節(新約99頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   230(「起きよ」と呼ぶ声)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-230.htm

⑨ 説  教  「先駆者」        北村慈郎牧師

  祈  祷

  • 今日は三つのローソクに灯がともりました。今日はアドベントの第3主日です。アドベントは、クリスマスの準備の期間で、「12月25日から数えて4週前の日曜日」から、12月24日までがその期間です。アドベントラテン語で「到来」「来臨」を意味するアドベントゥスという単語が語源とされており、「キリストが生まれた(この世に現れた)クリスマスという日を待ち望む」という意味があります。教会では、アドベントは「断食と悔い改めの時」とされてきました。
  • 12月25日の降誕節が日曜日でない時には、アドベント第4主日に私たちはクリスマス礼拝をもっています。その時は、アドベントの4本目のローソクに灯がともされるアドベント第4主日にクリスマス礼拝を行います。けれども、今年は12月25日が日曜日ですので、クリスマスの礼拝は4本のローソクに灯がともされた次の日曜日になります。
  • この前、今年のクリスマス礼拝は12月18日ではないのか、というお話がありましたので、説教とは直接関係はありませんが、何故今年のクリスマス礼拝はアドベント第4主日ではないのか、について説明させていただきました。
  • さて、イエスガリラヤで宣教活動を始めるに当たって、欠かすことの出来ない人物は、ユダヤの荒れ野に現れて、「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えていた」(マルコ1:4)バプテスマのヨハネという人物です。イエスは、このヨハネの下に行ってバプテスマを受けました。そして、そのヨハネガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスにつかまって獄中の人となってから、イエスは、ガリラヤに行き、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教活動を始めたのです。
  • エスの宣教活動が広く知られるようになった時に、獄中のヨハネにも伝わり、ヨハネは弟子を通してイエスに、「あなたが来るべき方メシアなのか」と問わせました。イエスヨハネから遣わされた弟子に向かって、あなたが見聞きしている通りだと答えて、ヨハネにその通り伝えるように言ったと、福音書には書いてあります(ルカ7:18以下)。
  • エスバプテスマのヨハネの関係がそういうものでありましたので、ルカ福音書の著者は伝承から、ルカ福音書1章、2章のイエス誕生物語の中に、バプテスマのヨハネの誕生とイエスの誕生を関わらせ、対比して描いたのではないかと思われます。それぞれ天使による受胎告知を受けて妊娠した、イエスの母乙女マリアがバプテスマのヨハネの母である老女エリザべトを訪問する物語(1:39以下)は感動的な物語になっています。(以前名古屋時代に、南山大学カトリックの神学校で三好迪さんがルカ福音書1章、2章のイエスの誕生物語を講義されたときに、私も聴講させていただきました。その時、三好迪さんは、老女よりも乙女の受胎の方が、同じ奇跡でも大きいと言っていました)。その後の「マリアの賛歌」(1:46以下)、バプテスマのヨハネ誕生後のバプテスマのヨハネの父である「ザカリアの預言」(1:67以下)も素晴らしいものであり、ルカ福音書のイエス誕生物語の中では際立っています。特にマリアの賛歌の中の一節、「主はその腕で力をふるい、/思い上がる者を打ち散らし、/権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、/飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます」(1:51-53)は、現代の権力支配に苦しめられている私たちにとっても、イエスの存在が大きな希望であることを示してくれています。
  • そういう文脈の中に、今日の説教のテキストであるエルサレムの祭司である、エリザベトの夫であるザカリヤへの天使による受胎告知があるのです。「ユダヤの王ヘロデ(このヘロデはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスとは違い、ヘロデ大王です)の時代、アビヤ組の祭司ザカリヤという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリザベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めとをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリザベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」(1:5-7)と言われています。
  • 不妊の女」という、結婚していても子供の生まれない女性に対する言い方は、差別的で不適切な言い方であることは留意しておきたいと思います。その上で、この祭司ザカリヤとエリザベトの老夫婦の物語からの語りかけを聞きたいと思います。
  • ザカリヤが天使からの妻エリザベト受胎の告知を聞いたのは、聖所(エルサレム神殿)で、祭司の勤めてある香を焚いている時でした(1:10節)。エルサレム神殿にはザカリヤのような末端の祭司は、18,000人くらいいて、それぞれ組に分かれて、その組が当番に当たったときに、その当番になる人をくじを引いて決めていたようです。ザカリヤはくじに当たって、エルサレム神殿の中で香を焚く役割を得たということになります。これはザカリヤにとって、二度と来ない光栄ある役割であったようです。ザカリヤは、「天使が現れ」るのを見て、「不安になり、恐怖の念に襲われた」(1:12)と言います。すると、天使はザカリアにこのように告げたというのです。
  • 「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いを聞き入れた。あなたの妻エリザべトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主(イエス)に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(1:13-17)。この天使のみ告げに対して、ザカリアは天使にこのように言ったと言うのです。
  • 「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(1:18)と。ザカリヤは天使のみ告げの喜ばしい使信を素直に聞いて、受け入れることはできませんでした。
  • わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。妻が子を産むなどということは考えられませんし、あり得ません。妻エリザベトへの天使による受胎告知を聞いて、ザカリヤはそう思ったに違いありません。このザカリアの言葉は、年齢のことではないかも知れませんが、私たちも、何かの時によく語っているのではないでしょうか。未来への希望、喜びが語られても、それを信じられないのです。自分でも今ある自分に重くのしかかった重圧、その束縛された現実から解放されたいと思いながら、それが不可能だと、その束縛された自分の現実を受け入れざるを得ないと思い込んで、あきらめてしまい、「仕方ない現実」として受け入れてしまうのです。そうなりますと、自分の現実が束縛されているということにも無感覚になりますので、そこから解放されたいという願いや思いも持てなくなってしまいます。ただあきらめて、自分の願ってもいない現実を容認して生きていかざるを得ないのです。ザカリヤとエリザベト夫妻は、結婚した者には子供が生まれて当然だという古代世界である当時のユダヤで、子供が生まれないまま、老夫婦になるまで生きてきたのです。周りから何と言われようと、子供のことはあきらめて、二人で生きて来ざるを得なかったのではないでしょうか。
  • ですから、ザカリヤが天使から「「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いを聞き入れた。あなたの妻エリザべトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。…」と告げられた時、「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と答えざるを得なかったのです。
  • そのようなザカリヤに天使は答えて言います。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからでる」(1:19-20)と。
  • ザカリヤは、口が利けないままエルサレム神殿での祭司の務めを終えて、自分の家に帰ります。すると、「その後、妻エリザベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。『主は今こそ、こうして、わたしを目に留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました』」(1:24,25)というのです。差別的で適切な表現ではありませんが、「不妊の女」と言われ続けて、老女になっていたエリザベトにとって子供が授かったということは、この上ない喜びだったに違いありません。
  • そのようにして生まれたバプテスマのヨハネが、成人して、人々に悔い改めのバプテスマを宣べ伝えて、イエスの先駆者として、人々を神に立ち帰らせる働きをしていくことになるのです。先駆者として、彼の後から現れた救い主イエスを指し示すことによって、全ての人の人権が大切にされ、喜びをもって平和を共に生きることのできる、神の支配である神の国を信じて、現実の束縛からの解放を求めて立ち上がって生きる者へと民を導いていったのです。
  • このことは、自分の妻である老女エリザベトへの天使におる受胎告知を聞いたときに、そんなことは起こり得ないとあきらめていたザカリヤを、エリザベトに子供を授けることによって打ち砕いて、神の業を信じさせた神の働きによるとしか言いようがありません。私たち人間のあきらめを打ち砕くバプテスマのヨハネナザレのイエスの誕生は、歴史的には一回的な過去の出来事ですが、信仰においては、その都度その都度、繰り返し起こっている出来事なのではないでしょうか。
  • わたしは老人ですし、妻も年をとっています」というザカリヤの諦めからは何も生まれません。ヘブライ人への手紙の著者が語っているように、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(11:1)なのです。待降節に当たり、そのことを確認したいと思います。もし私たちが現実の厳しさと自らの弱さのゆえに、何もできないのではないのかと諦めているとするならば、待降節は悔い改めの季節ですから、メタノイア(悔い改め)、方向転換をして神の国の実現を信じて生きていきたいと願います。
  • 主がそのように私たち一人一人を導いてくださいますように!

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • アドベントも第3主日を迎えました。ここに灯されているローソクの灯のように、私たちがイエスを信じる者として、世の光・地の塩として生きていけますようにお導きください。
  • 現実の厳しさの故に諦めてしまいがちな私たちですけれども、あなたの霊の働きかけを与えられて、イエスの福音に希望を託して歩み続けることができますように。
  • 今この世界の中で苦しみながら、命を抱えて生きている方々に、あなたが支えのみ手を差し伸べてくださいますように。また、私たちに苦しむ方々と共に生きる力を与えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌   236(見張りの人よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-236.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。