なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(30)

船越通信№30   2011年11月6日     
 
   1030日の日曜日は礼拝後、何時ものようにお茶の時間を持ち、散会しました。私はこの日面談があり、午後3時過ぎに連れ合いと船越教会を出て、鶴巻に向かいました。お茶の時には、1127日の礼拝後に開催を予定しています、私が本年4月に船越教会に来てから2回目になりますフリーマーケットの相談をしました。前回開かれた時には、船越教会のメンバー数名が出店するような形で、それぞれが持ってきた品物を並べて、フリーマーケットに来た人が買い求めるというものでした。フリーマーケットと言っても、船越教会の会堂で行われますので、よく街で行われているような人が行き交う場所とは違います。むしろ教会バザーに近いものです。
   教会バザーの場合には、一つの教会が会堂建築の資金のためというようなはっきりとした目的を持って行われる場合が多いようです。私が本年3月までいました紅葉坂教会でも、私が1995年に名古屋の御器所教会から転任してきた頃は、数年前に100周年があって、会堂の全面的な改修が行われていましたので、その資金のためにバザーが開かれていました。当時古着がたくさん集まって、中には品物として相当良質なものもあったようで、古着屋さんか買いに来ていたようです。ただバザーで残った古着の処分がなかなか大変でした。しかし、その後100周年の改修のための費用が満たされ、その必要がなくなってからは、教会バザーの目的も薄れ、また教会員の高齢化がすすみ、段々と規模を縮小し、最後の5年ほどは教会バザーは行わなくなっていました。
   前回の船越教会のフリーマーケットは、そういう教会バザーとは違い、個人の責任で行うものですから、気軽な面があり、交流の場というコンセプトで行っていますので、重くなくいい感じでした。1127日のフリーマーケットも楽しいひと時となるでしょう。ただ、私はその日午後4時から教区の第3オリエンテーションが教区事務所であり、途中で失礼させていただくことになります。
   111日の火曜日には教区の常置委員会があり、オリエンテーション委員会と寿活動委員会の委員長として出席しました。この日の常置委員会では正教師試験と補教師試験の受験者8名の面接がありました。教師試験受験に当たっての思いを一言ずつ受験者が発言し、面接が行われました。ほとんどすべての受験者の発言の中には、多様性を重んじ一致を求めて忍耐強く対話していくという神奈川教区形成基本方針を重んじていくという決意表明のような内容がありました。すると常置委員の中から、教区形成基本方針よりも教団の教師になるということは、教団の信仰告白と教憲教規に従うかどうかが重要なので、その点はどうかという質問が出ました。受験者は皆「教団の信仰告白と教憲教規を重んずる」と答えました。また、別の常置委員から「未受洗者」配餐についての質問がありました。数名が派遣された教会とよく話し合って、教会の決断に従いたいと思おうと発言した他は、教憲教規に従って「未受洗者」配餐はしないと答えました。受験者に教団信仰告白、教憲教規や「未受洗者」配餐の是非を問うという踏み絵をふませるような質問は好ましくありません。教職として教会の責任を担う者は、聖書と現実社会に生きている人間の問題との中で苦しみながら福音宣教の業を担うわけで、規則や教会の枠組みは重んじなければなりませんが、ただそれを守っていればいいというものではないからです。常置委員会では陪席者の一人が、教団の信仰告白は戦時下の教団の教義の大要の焼き直しであり、教団の戦争協力の問題を克服したものでないし、教憲教規も相対的なものであるという意見を述べました。すると、一常置委員がその意見は発言者の考えに過ぎないという発言を、わざわざしました。このような踏み絵的な発言の立場にある常置委員は、「未受洗者」配餐への問いに教会との話し合いを大切にしたいと発言した受験者の推薦には手をあげませんでした。こういう状況ですので、受験者や教区に新しく来た教師の面接における所信表明は、ますます無難なことしか言わなくなっています。委縮からはイエスの解放のメッセージが聞かれることは皆無に近いでしょう。責任の伴う自由の精神をもって主体的に生きるキリスト者でありたいと願うものです。
   1030日の礼拝メッセージは、バプテスマのヨハネの死の場面であるマルコ福音書614節以下がテキストでした。私はこの個所で問題になっている「イエスは誰か」という問いには、イエスと私たちとの関係の在り方が示唆されているのではないかと思い、そのことを語りました。イエスを、「バプテスマのヨハネの再来」とか「エリヤではないか」とか「あの預言者ではないか」という反応の中には、自分の了解可能な存在としてイエスを捉えようとする人間の側の問題が現れていると思うのです。そういう形でのイエスとの関係は、信仰告白を大切にする人の中にもしばしばありますが、イエスを正しく認識しているという私たちの側の問題があり、本来の「驚き」を介したイエスと私たちとの関係とは、微妙に違うように思うのです。「信じます、不信仰な私をお助けください」というのが信仰で、その信仰には不信仰が内在しているのです。そのことがひとつ。もう一つは、ヘロデ・アンティパスが「バプテスマのヨハネの生まれ変わりではないか」とイエスを怖れたのは、権力や富みによる自分の権勢を脅かすより大きな権力者としてイエスを見立てたからではありません。むしろそういう点ではイエスは無力者そのものです。ヘロデのような権力者は人を殺すことができました。人を殺して黙らせようとしたのです。しかし、イエスは死人を生かし、病者や悪霊につかれた者から彼ら・彼女らを悩ましていた悪しき力を追放し、癒し解放するのです。イエスによって人々が立ちあがっていくとき、ヘロデはローマに対する恐れとは、全く異質な恐れを持ったのでしょう。この世の権力や富みによらない、バプテスマのヨハネが指示し、イエスによって実現しているその力は死を命に変える力なのです。そのようなイエスの名のもとに集めれれている私たちは、イエスの名を汚さないようにしたいと思います。