なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(88、復刻版)

「黙想と祈りの夕べ通信(88、復刻版)」を掲載します。以下に出て来ます詩編27編7-10節を記しておきます。
 
 〈主よ、呼び求めるわたしの声を聞き
  憐れんで、わたしに答えてください。
  心よ、主はお前に言われる。
   「わたしの顔を尋ね求めよ」と。
  主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。
  御顔を隠すことなく、怒ることなく
  あなたの僕を退けないでください。
  あなたはわたしの助け。
  救いの神よ、わたしを離れないでください。
  見捨てないでください。
  父母はわたしを見捨てようとも
  主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。〉

           黙想と祈りの夕べ (通信 88[-36] 2001・6・3発行)

 今日のロ-ズンゲンの主日聖書の一つ詩編27編の7-10節は、葬儀式の招詞に読まれるところです。去る24日に突然召されましたM・S姉の「お別れの会」が明日あり、その時にもこの詩編の箇所を招詞として朗読します。M・Sさんからお聞きしたことで二つことが思い出されます。

 一つは1957年から1977迄の20年間M姉の夫は医者として西区花咲町に19床のベットをもつS病院を経営していました。彼女の夫は医者としては患者に余分な治療は施さず、薬も必要最低限しか出さないという方だったそうです。従って、病院のやりくりを一切負っていましたM姉には苦労の連続だったそうです。1977年に病院を閉じて、彼女の夫は熱海の病院の医師になり、M姉も約15年間を網代で生活しました。M姉は生前私に花咲町時代と熱海時代のご自身の生活の違いをしみじみと語られ、熱海時代がどんなに平和な気持ちで過ごせたか、それに反して花咲町時代は心休まる時がなかったとおっしゃいました。

 もう一つは、彼女の夫が晩年自分の病気と向き合って見事な最後であったことを印象深くお話されたことです。今回も22日に救急車で市民病院に緊急入院して3日目に亡くなるまで、痛みが厳しかったようでしたが、長女のYさんが看護婦さんを呼ぼうかと言っても、いいと言って遠慮されたそうです。それはご自分が病院の切り盛りをしていたときに、看護婦さんの大変さをよく知っていたので、自分のために迷惑をかけたくないとのMさんの想いからだったようです。84年と11ヵ月のその個有の生涯をM・Sさんは歩み終えて、神さまのところに帰っていかれました。覚えて祈っていただければと願います。

 上記の私の話に続いて、一人の姉妹が、その日の日曜学校での礼拝から感じたことを話しました。礼拝のお話はO兄がしてくださり、靴屋のマルチンの話をパン屋さんに置き換えてお話してくださった。赤ちゃんを連れたお母さんやおじいさんがパン屋さんにやってきたこと。そして神さまはそのような人を通してパン屋さんにご自分を現されたこと。すると子どもの中から、神さまはマジシャンみたい、という反応があった。お話の聖書テキストはヨハネ福音書15章1節以下のぶどうの木のたとえでした。枝が木につながっていなければ枯れて死んでしまうというところです。乳飲み子とお母さんの関係にもたとえられた。子どもたちは、そのお話を聞いて、神さかをマジシャンやお母さんというイメ-ジでとらえているようだった。私たちは神を「父なる神よ」という定番で呼びかけているが、子どもたちは柔軟で自由な発想で神をイメ-ジしているように思えた。そのような子どもからもっともっと学んで、神のイメ-ジを「父なる神」にとらわれずに自由で豊かなものにできたら素晴らしいと感じさせられたと。

 また一人の姉妹は、昨日教会で行なわれたの青年の結婚式とティ-パ-ティ-に出席してよかった。その感動のなごりもあるためか、今朝は早く目覚めて起きた。すると友人から電話がかかった。今まで自分の方から避けてきた友人だったが、その時はこだわりなく話せた。その人は自分が以前出席していた川崎の教会で、彼女のことがあって川崎の教会の方々とも疎遠だったが、これからは昔のことにこだわらずに、新しいことに向って歩むことができるように思える。6月に川崎の教会で開かれる集会に自分も参加することにした。静かに自分を振り返り、気持ちの整理が出来て感謝であると。