マルコ福音書による説教(37)、マルコによる福音書9:14-29、
・本日の聖書の箇所とその前の山上の変貌といわれています記事とを比べますと、山の上と山の下で起こっています事が、大変対照的に描かれているのに気づかされます。山の上におきましては、輝きと至福の喜びに、そこにいた三人の弟子たちが完全に圧倒されているのがわかります。山上で弟子たちが出会った出来事が、イエスの栄光の姿、神の支配そのものであるとすれば、山の下で起こっていた出来事は、正に地上のこの世の姿そのものと、言うことができるでしょう。
・今日の記事に記されています出来事を思い起してみましょう。ひとりの子供が人々の真ん中に立たされています。その子供は口がきけませんでした。そして、多分癲癇だったと思われます。「霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、その子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます」(18節)と言われています。その子の父親は、子供を癒してもらいたいと願って、イエスのこところにやってきました。しかし、イエスは3人の弟子たちと共に山に登っていましたので、残っていた弟子たちに、自分の子供を癒してくれるように頼んだのでしょう。けれども、弟子たちは子供を癒すことができませんでした。(「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」(18節))。
・そこで、イエスや弟子たちの行動を快く思っていませんでした律法学者たちが加わって、弟子たちとの間に論争がはじまったのです。それを、多くの群衆が取り囲んで、どうなるのかと見守っていました。霊に取りつかれた息子を連れてきた父親は、その群衆の中でどうなることかと、思い惑っていたに違いありません。そして、癒してもらおうと連れてこられた子供は、言葉を語ることも出来ず、いつまた、恐ろしい痙攣を起こすか分からないという不安に怯えながら、論争しているイエスの弟子たちと律法学者の傍らに立ち尽くしていたのでありましょう。
・癒しを求めてそこにいる、病める子供をそっちのけにして論争に熱中している弟子たちや律法学者たち。その論争の成り行きを見守っている群衆。予想外の展開に、戸惑う父親。その光景を想像しますと、とてもやりきれない気持ちにさせられます。病める者である子供が、その場所にいて、誰よりも強く、また必要な助けを求めているにもかかわらず、助けを与えられないまま、大人たちの論争の只中に、見捨てられたようにその場所に立っているのであります。
・イエスに従う弟子たちも、その中で、その病める子供には何もできないだけでなく、無意味な論争に熱中しているのです。そこでは、イエスの弟子たちは、何らイエスの弟子たる者としてのイエスご自身を指し示すことによってそこに生まれる輝きを失っていました。まったく弟子たちは、自分たちがイエスの弟子であり、自分だけで立っているのではなく、イエスと共にある自己の存在の恵みを忘れて、その恵みから離れて自分だけであるかのように振る舞っているのであります。この時の弟子たちは、あの使徒言行録3章1節以下に記されています、エルサレム神殿の美しの門のところでなされたペテロのようではありませんでした。使徒言行録3章では、足の不自由な、物乞いする男に向かって、ペテロは「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3:6)と語ったのです。
・このマルコ9章14節以下の状況は、正に地上の姿そのものではないでしょうか。最も助けを必要とする者が、人々の傍らに見捨てられているのです。例えば、私たちは、病気になりますと、病院に行き、治療を受けます。病院では、色々な病気の人が治療を受けております。現代医学で治療が可能な人と不可能な人の、二人の病人がいた場合、医者はまず治療可能な人からはじめるでしょう。私たち常識では人間的な可能性の中で、助けられる人からはじめるというのは、当然のことであります。けれども、病んでいる人にとっての切実さからすると、自分の病気が治る可能性がある人と、ない人とでは、治る可能性がない人の方ではないでしょうか。しかし、その人の求めは、答えられないままに終わらざるを得ないのです。それが病める者の現実であり、この世の現実であります。
・この息子と父親は、そういうこの世の現実に何度も何度もぶつかってきたのではないでしょうか。そして、もう一度希望を駆り立てて、イエスのところへ来たところが、イエスはいらっしゃらないで、弟子たちだけだったのです。そしてそこでまた、この世の現実に出会って、打ちのめされていたのでしょう。
・イエスは、そのような有様を知って、「なんという不信仰な時代なのか」と、嘆かれたというのです。なぜ、イエスは、不信仰な時代と言ったのでしょうか。不信仰とは、神を信頼しないこと、神を神として崇めないことです。それは、神の可能性を信じないで、自分自身の可能性にのみ、立っていることです。
・父親とイエスの対話は、一体信仰とは何なのかということについて、私たちに鋭く示しています。父親は、イエス対して、幼い時からの息子の病状を説明したのち、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と願っています。それに対して、イエスは父親に「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と答えています。すると、すぐに父親は叫んで、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と言ったというのです。その後、イエスは子供から霊を追い出されたのです。
・このイエスと父親との問答において、父親は「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」とイエスに願いました。この父親の言葉には、何かイエスを計りにかけているところがあります。「できないかもしれないが、もしおできになるなら」と。ここには本当のイエスへの信頼はありません。この父親の嘆願に対して、「み心ならば、わたしどもを憐れんでお助けください」という言い方もあったでしょう。この場合には、どのような形にしろ「現われたみ心に従う」という信仰があります。
・「『できれば』と言うのか。信じる者には何でもできる」とイエスは答えました。すると、父親は、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と言いました。 ∥子と父親をおおう重荷から、《わたしども》を助けてください。から、⊃澄覆硫椎柔)を信じられない《わたし》をお助けくださいという変化が、この父親の言葉の中には示されています。
・この記事は、奇跡物語に属しますが、今までの奇跡物語にはない点があります。イエスの奇跡が行われる前に、山の下に残された弟子たちには霊を追い出すことができなかったことと、最後の部分に弟子たちとイエスの問答があって、そこで、弟子たちから私たちにはどうして霊を追い出すことができなかったのかイエスに問うています。それに対して、イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた、とあります。ここには、弟子たちへのイエスの教育的な配慮が示されていると思われます。
・「祈りによらなければ」と、イエスは言われたというのです。ヤコブ書に「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」(ヤコブ5:15)と、言われています。
・もう大分前にビデオで「水野源造の生涯」を観ました。私は、どちらかといいますと、水野源造や星野富弘を好んで読んだり、人に勧めたりする者ではありません。不自由な体をかかえた二人が、信仰の詩を書いたり、絵を書いたりすることは素晴らしいと思いますが、それは二人なりの証だと思うからです。二人と同じようなことができるわけではありませんし、しようとする必要もないと思うからです。ただ「水野源造の生涯」のビデオを観て、彼を導いた宮尾という牧師の水野源造への関わり方に教えられました。全身麻痺で家にいる水野源造を訪ね続ける宮尾牧師の姿の中に、イエスが、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と言われたところの祈りを感じさせられたことです。祈りは、愛ではないでしょうか。一人の人のために祈ることは、その人を心から愛することです。その愛は、愛する人に、イエス・キリストにおける神の愛を想起させる力になるのではないでしょうか。そしてその人は何ものによっても引き離すことのできない神の愛の中に包まれてある自分を発見し、恐れないで生きる人になって行くのだと思います。そういう意味で、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と、イエスは弟子たちに言われたように思うのであります。
・「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従ってきなさい」というイエスの招きに従う者は、祈る者でなければならないと、今日の聖書は、弟子たちの失敗を通して語りかけているのであります。隣人である他者に対する執成の祈りをもって、重荷を背負う者たちと共に生きる者でありたいと願います。