なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(89、復刻版)

 私は吉本隆明の本をすっと読んでいますが、吉本の良さは、その都度その都度自分の考えを突き詰められる限り突き詰めて考え、正直に言い表してくれるところにあるように思っています。先日本屋で「15歳の寺子屋授業その実録」の一冊吉本隆明著『ひとり』が目に入り、購入して読んでみました。15歳の数名の少年少女を前にして話したものです。その中に「大人になるってどういうことか」というテーマで吉本が話したものが収められています。そこにはお互いに正義をふりかざして殺し合うのではなく、決着をつけない働きの大切さを語っているところがあります。

 「今は平和だっていうけど、中東でもアジアでも、小さな戦争はいくらでもあるわけです。一方が相手を『おまえたちがやっていることはテロだ』っていったとしても、もう一方は『よせやい』っていうと思いますよ。/どちらが本当かといえばどっちも本当で、そういう問題は、なかなか決着がつくようなものでもないし、またつけないようにしたいと心がけているんです。『よせやい』というのは僕の口癖ですが、そういうことに決着をつけない働きをしている言葉なのかもしれませんね。洞察し考えつくしたように見える問題でも、『おまえ、そんなふうにいうけどなあ』って異論はいつでも出てくる」と。

 この部分を読みながら、私の戒規免職問題も同じではないかと思いました。お互いに言い分があって、そう簡単に決着がつく問題ではないのに、現教団執行部が策を弄して決着をつけてしまったのが私の戒規免職問題ではないでしょうか。

 さて、今日は「黙想と祈りの夕べ通信(89、復刻版を掲載します。


           黙想と祈りの夕べ (通信 89[-37] 2001・6・10発行)

 この「黙想と祈りの夕べ」のはじまる15分前くらいに、いつも電話をかけてくるF兄から電話があった。どこかの駅の近くからかけているようで、彼は自分が疲れてくると紅葉坂教会との関わりでうまくいかなかったことを思い出してしまうと、彼の心の中で傷ついていることを、いつものように訴えた。

 今日の朝の礼拝説教の中に、命をかつぐ尊さを病気の人の見舞いに行って感じたと言われていたが、彼は自分の命をかつぐ困難さにぶつかっているように思える。人は仕事を持ち、家庭を持ち子どもが与えられて、それが生き甲斐になると思うが、彼にはそのようなものが与えられてはいない。与えられた命を喜んで生きることは、神との関係から来るわけだが、現実には具体的な人との関わりの中で優しさを経験してはじめて感じられるのではないか。彼は作曲をしたり、詩を書いたりしている。そのような彼の作品が社会的に認められれば、生きる糧ともなろうが、どうもそこまでは行っていないようだ。おそらく彼は消え入りそうな命しか感じられないでいるのではないだろうか。

 自分は昨夜港まつりの花火を臨港パ-クに行ってみた。花火とレ-ザ-光線が見る者を楽しませてくれた。そこには恋人同志と思える多くのカップルや家族連れ、中にはお孫さんと手を繋いでいるおばあさんもいて、最後はみんな拍手をして終わった。生きていてよかったという感動を受けた。

 今のこの「黙想と祈りの夕べ」の静かな時間も自分には感謝である。今このように感謝ができるということは、今までさまざまな人との関わりの中で喜びの経験が沢山あるからだと思う。そして自分はこれからも感謝して生きていけると思う。自分はF兄に対して何もできない。けれども、そういうつらい命をかかえているF兄がいることは覚えていきたい。そして神の愛がどうとどくのかは分からないが、彼にもとどくように祈っていきたい。

 以上のような一人の姉妹の発言に続いて、彼女の発言に促されて、私は以下のような話をしました。

 話を聞きながら、神の受肉であるイエスのことを考えさせられていました。聖書では神の愛は、イエスという肉体をとってこの世に誕生した方の仲介によって私たちに啓示されていることが語られています。イエスの生涯がなければ、神の愛が具体性をもって私たちのところにもたらされなかったでしょう。そういう意味で、神の愛はイエスという方の証言を通して私たちに示されていると言えると思います。そして、間接的にではありますが、イエスを信じる私たちはイエスの証言者という面をもっていて、イエスが証言された神の愛を私たちの生き様によって証言していると言えるのではないでしょうか。その私たちの証言は他者に神の愛を共感してもらえる積極的な証言だけでなく、他者に躓きを与える逆の場合もあり得ると思います。いずれにしろ、人を媒介にして神の愛が他者に伝えられて行くことを銘記したいと思います。

 さて私が紅葉坂教会の牧師になってから既に6年が経ち、現在は7年目に入っています。この間F兄はどれだけ電話をかけてきたか分かりません。これからも続いて行くでしょう。もう一人K兄がいます。K兄は一時期集中的に電話をかけてきますが、途絶えることもよくあります。F兄は多少そういう時期もありますが、ほとんど通年と言ってよいと思います。私は二人が電話をかけてくる限り、これからも受けて行こうと思っています。諸兄姉におかれましたも、そういう二人がいることを覚えていただければ幸いです。