なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(50、復刻版)

 11年前の黙想と祈りの夕べで私が語ったことは(下記)、最近教会の聖書研究でテキストにしています本田哲郎さんが『聖書を発見する』の中で言っていることに通じるように思えます。本田哲郎さんは、釜が崎の労働者の中にキリストを発見しているようです。釜が崎の労働者をキリストだと直接的に語っているところはないかもしれませんが、釜が崎の労働者がその一人一人の人生で多くの困難と苦しみの中で生きていたそのことが洗礼を受けたことを意味するということを上記の本の中で語っています。そのような釜が崎の労働者の先輩と共に生きることが、悔改めて福音を信じて生きる(「低みに立って見なおし、福音に信頼してあゆみを起こす」本田訳)ことだと、本田さんは言うのです。

 私は、釜が崎や横浜なら寿のような場所だけではなく、そこそこ豊かな生活を享受している人が集まっている「住宅街にある」既成の教会に集う人もまた、「低みに立って見なおし、福音を信頼して歩みを起こす」ことへと招かれているのではないかと思っています。
 さて、今日も「黙想と祈りの夕べ通信」(50、復刻版)を掲載します。

   黙想と祈りの夕べ (通信 50 2000・ 9・10発行)

 今ここに私たちの社会や歴史が存続しているのは、それぞれの時代や社会の中で生きてきた無辜の民が存在したからのように思えてなりません。人間そのものと時代や社会の不条理を一身に受けて、黙々とその生涯を歩み通した方々が歴史をその底で支えて来たのではないでしょうか。そのような方々はキリストの十字架の道を歩まれたのだと言えないでしょうか。私は、作家井上ひさしが、広島の被爆者の証言集を30年近く読み続けてゆく中で、その証言者の中にキリストやキリスト以上の存在を見い出しているのを知って、一つのインスピレ-ションを与えられました。滝沢克巳は、イエスはキリストだが、キリストはイエスの占有ではないというようなことを言っています。キリストはイエスだけではなく、あらゆる他の人においても、誰々はキリストだという形で現前し得るというのです。イエスがキリストなのは偶発的な出来事であって、他の誰かにおいてもその偶発的な出来事が起こり得ないということはないと言うのです。井上ひさし被爆者の中にキリストやキリスト以上の存在を見い出しているとすれば、この滝沢克巳の考えに通ずるように思われます。正統的なキリスト教の教えでは、このような考え方は異端的なのでしょうが、この頃の私にはうなずけてしまうのです。

 3日の「分かち合い」では、上記のような私の感想に加えて、3人の姉妹から以下のようはお話がありました。

 A姉は、8月末にありました「フェミニスト神学の会」に参加して、テキストである『アダムとエバと蛇』が扱っている創世記の物語を学び、聖書をうのみにするのではなく、自分なりに読んで行くことの大切さを改めて知らされたと言われました。たとえば、人間が罪を犯し苦しむのは、アダムとエバの違反からきているからだと考えたり、よく生きているときには、神が「生きよ」と言われたからだというように、聖書と神を安易な理由づけに持ち出さないようにしたい。苦しい時も喜びの時も、男と女がそれぞれの命を互いに生かし合い共に生きていくことではないかと。

 B姉は、はじめての海外旅行で、出発の時からみなさんのお世話になることばかりで、ハガキを書く余裕もなく、写真も思うように写せなかった。けれども、帰ってから一緒に行った方から沢山のよい写真をいただいて感謝。これからは小さくとも、自分に合ったことをして、周りの人に少しでも希望を与える生き方をしていきたいと心から思っていますと、おっしゃいました。

 C姉は、8月27日の礼拝後に開かれた「平和を考える有志の会」に参加し、途中退席し、その後あゆみ荘であった「障害者と教会の集い」にはじめて参加した感想を話されました。その中で、この集いのテ-マ「教会は病んでいる」について、自分は、教会生活をずっと続けていく人が病んでいくというだけでなく、その中にいて、病を生み出していってしまう自分自身について感じなくなっている現状が病んでいると言っているのかと思ったと言われました。また、目の不自由な方の発題では、とにかく教会は忙しい。その中で自分たちが隅っこに追いやられているということが語られていましたと。

 この日の「黙想と祈りの夕べ」には、5ヵ月振りにM姉が出席しました。彼女は今年の4月からデザインの専門学校に通っていますが、元気そうでホットしました。携帯電話の話になり、友人と一緒にいるときに、自分の携帯電話が鳴ると、自分には友達がいることがわかってうれしいと。