なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(24)

 昨日弁護士から私の訴状を東京地裁に提出したと連絡がありました。これで教団における私の戒規免職処分の是非を巡って本格的な裁判になります。みなさんのご支援を心からお願い申し上げます。さて、本日はマルコ福音書による説教(24)を掲載します。

 マルコ福音書による説教(24)マルコによる福音書6:45-56、

・今日のテキストの前には、既に考えましたように、ちょうど良き羊飼いが、羊たちを整然と野原に憩わせている光景にも似た、男5000人の群衆が5つのパンと2匹の魚によってイエスから豊かな食物を得たという奇跡的出来事が記されていました。この物語を伝えた初代教会の人々は、聖餐と結びつけていたでしょうし、又来たるべき神の国の祝宴が、イエスを信じる信仰によって確かな希望として、この物語を読む度に想い起こされたのでしょう。この場所は6:35にあるように〈寂しい所〉であったと言われます。〈荒野〉です。そこは、バプテスマのヨハネが出現した所であり、イエスが誘惑にあった所でもあった(1:4、1:12)と、福音書は伝えています。少なくとも町や村のように、家族の生活や隣近所の付き合いや、仕事場や、仕事仲間に囲まれている所、つまり日常的な生活からは離れていて、イエスの教えに耳を傾け、イエスを通して神の救いにあずかることができるのではないかと、そのことに集中できる時と場所に群衆は、イエスの弟子たちを追って来たのでしょう。私達にとっての日曜礼拝と考えて良いかも知れません。教会堂は町の真ん中にありますが、〈荒野〉であります。そこで群衆がイエスに聞き入ったように、神の言葉に聞き入るのです。その時間がず-っと続き、その場所にず-っと居ることができたらどんなに良いことか。この世の煩わしさから解き放たれた時と場所に、少しでも長く居られたらという思いは誰にでもあることでしょう。

・ところが、今日のテキストを見ますと、パンの奇跡の後、「そこから直ぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベッサイダは先におやりになった。そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた」(45・46節)と言われています。これによると、〈群衆を解散させた〉のも、〈強いて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベッサイダへ先にやった〉のも、イエスご自身であると言われます。解散した群衆はそれぞれが出てきた町や村へ帰って行ったのでしょう。弟子たちは、舟に乗って〈海のまん中に出て〉行きます。しかも海の真ん中に出たときには、既に夕方になっていたといわれています(47節)。段々と暗い闇が舟の中にいる弟子たちをおおってきます。逆風が吹いて、なかなか前進できません。こぎ悩んでいる弟子たちです。イエスは陸の方にいて、彼らと一緒ではありません。このように描かれる弟子たちの状態は、あの男5000人のパンの奇跡の光景と比べてみますと、極めて対照的に見えます。パンの奇跡では、圧倒的なイエスの奇跡の下に、弟子たちも群衆も、その奇跡に仕える役割を担っていたのに対して、ここでは彼らだけで、逆風が吹いていた海の真ん中で舟を漕ぎ悩んでいるのです。

・マルコの叙述は、風に翻弄されている弟子たちの孤独な姿を強調しているように思われます。気象条件が悪くても、ガリラヤ湖を横断するためには、6~8時間もあれば十分だったと言われますから、夕方から翌朝の3時までかかっても、それ以上進んでいないというのですから、いかに苦闘しているかがわかるでしょう。海は、ユダヤ人中では危険、神秘、恐怖の領域でありました。波立つ海は、乱れた罪深い世の象徴として考えられていたのです。そのような自然とこの世と向かい合い苦闘している人間、しかしその苦闘が大きな悩みとなって、重くその人の肩にかかっている人間を見たのでありましょう。しかし同時にマルコは、そのような弟子たち、つまり〈漕ぎ悩んでいる〉弟子たちの姿に現れる人間の絶望を肯定し、是認しているわけではありません。6:52に「先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである」と言われていますが、これは弟子批判の言葉です。マタイの平行記事(14:22-)の方には、この言葉は削除されています。

・イエスが何を求め給うかは明らかであり、そのイエスのみ心に即して日々歩もうとする時に、イエスのみ心にとは違うこの世の力と対決していかざるを得ないのです。弟子たちが暗い海と逆風に抗して舟をベッサイダに向けて進ませようと、〈漕ぎ悩んで〉いたと言われている弟子の悩みは、そのような主に従う時に付随してくる悩みでもありましょう。弟子たちの問題は、現実の厳しさ、つまり荒れた海そのものの大きさによるのではなく、彼らがそこでイエスを忘れてしまって、風と波にだけ目をとめる状態になっていたことです。

・弟子たちが嵐のゆえに舟を漕ぎ悩んでいたとき、イエスは山で祈っていたと言われます。弟子たちはイエスから離れて、海に舟を出して行きましたが、イエスはそのような弟子たちを見捨ててしまったわけではありません。イエスの祈りは〈執り成し〉の祈りです。弟子たちのために神へ執り成し、イエスと父なる神が一つであるように、弟子たちも神と一つに結びつくようにという祈りであったに違いありません。確かに海と山というように離れてはいても、イエスにとって弟子たちは離れていはないのです。そして弟子たちが漕ぎ悩んでいる様子をご覧になって、〈海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた〉(6:48)と言われています。

・〈通り過ぎる〉。 風波を恐れる弟子たちを無視して、前進するイエス(鈴木)の姿が記されています。神顕現においては神は「通り過ぎる」者として受け取られました。エリヤに対する神顕現の場合、「主は通り過ぎられ、主の前に、大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた」(列王上19:11)と言われます。弟子たちは海の上を歩くイエスを幽霊だと恐れます。

・イエスは恐れる弟子たちに「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と声をかけます。イエスが舟に乗り込まれると、風はやみました。私たちが直面する問題や苦難の中で、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」とのみ言葉こそ、われわれに光を与える命ではないでしょうか。

・東北大震災を現地で経験した牧師たちが、地震から5カ月たった時に、仙台に集まって座談会を開いています。その記録が「危機に聴くみ言葉~3月11日の後で教会は何を聴き、何を語るか~」という表題がつけられた『説教黙想アレテイア』という雑誌に載っています。その中で日本基督教団福島伊達教会の牧師の宮崎新さんが、以下のように語っています。少し長くなりますが紹介させていただきます。

・「先ほども話題になりましたけれど、震災後にテレビで「がんばろう」とか「きずな」とか、同じ言葉が繰り返し流されました。そのたびに私は激しい孤独感におそわれました。「お前ら勝手にがんばれ」というように聞こえてきて、むしろ、がんばれとか一緒にいるという言葉の空しさを、あそこで学ばされたような気がします。/では教会は何を語れるか。今ルカ福音書を読んでいますけれど、それまでと随分変わったと思うのは、十二弟子が十字架とか復活をどう体験したかということを強く意識しながら、全体を読むようになったということですね。その中でも迫ってくるのは、十字架を前に逃げ出してしまった弟子たちに対して、イエス・キリストが「平和があるように」と言われたことです。そこに立つしかないのかなということは、よりいっそう鮮明になってきました。/ 「平和があるように」とイエス・キリストが言っているのに、お弟子さんたちは「幽霊だ」とこわがっているわけです。その愚かさに自分を重ねつつ、でもイエス・キリストは「平和があるように」と語ってくださっている。そういう私が語り得ない、語り切れない福音を、み言葉を通してイエス・キリストが礼拝のたびに語っているところに立つしかない。自分が語り切れないという思いがありけれど、語り切ってしまえば、自分の言葉になってしまうのかな、とも思っていますね。」

・大震災と大津波に東電福島第一原発事故という厳しい被災の現場にある教会の牧師たちが、絶望してすべてを投げ出してしまうのではなく、自分では語り得ないけれども、そこで聖書に聴くという作業を続けていこうとされていることに、私も同じ牧師として共感を覚えています。

・この宮崎新さんの発言を受けて、柳谷雄介さんは、「語り切る必要もないし、語り切れるものでもないという思いは大きいですね。僕にとって見れば、あの日が天地創造だというくらいに思っていて・・・・。その前はすごく混乱していて、けれどもあの日、多くの方が言っていますけど、星がきれいでしたよ。何もなくなってみて星がきれいだったというのは、すごく象徴的ですが、「あの日、光があった」と思うんですよ。それはでかでかとまぶしい光ではないけど、やけに美しくて。
 思い起こして見みると、あの日なんにもなくなってみんながそうしたかというと、自分のことだけ考えたのではなくて、津波の中にいる人を助けたり、食べ物のある人はない人に配ったり、お年寄りや子どもを優先して。それも光だったと思うんですよね。あの日、神さまからOKを出されたという気持ちがあるんですね。身内をなくした方がそれでOKかと言えば、今の僕にはわからない面が多いけれど、うまく言えないのですが・・・・。
 あの日、あれでOKだったんだ、というところに立って、それが本当にずしんと体の中で入ってきたら大きいだろうと思うんです。何もなくても何もできなくてもOKなんだ。弟子たちが逃げてしまったように、僕も何もできなかったけど、でも本当に偶然が偶然を呼んで人を助けちゃったとか、偶然につながりができちゃったとか、自分の力じゃなくて生かされている。・・・・・これがもっともっと強くなっていくといいと思うんですけど。なんかこう、自分がそのままでいていいということが、確信に一歩近づいたんじゃないかと思っています」。

・このお二人の牧師の発言は、今日の聖書の個所にふさわしいように思えて、紹介させていただきました。嵐で船が沈みそうな状況にある弟子たちに、その同じ湖の上を歩いて通り過ぎようとされたイエスが、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(50節)と弟子たちに語っておられることに、弟子たちがそれでも立っていける根拠があるのではないでしょうか。