なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(42)

   「おぼれそうです」マタイ8:23-27、2019年7月7日(日)船越教会礼拝説教
            

・今日のマタイによる福音書の記事は、嵐を静めるイエスの自然奇跡の物語です。自然とか、社会は、私

たちにとって命と生活を紡ぐ場所であって、その場所が私たちにとって生き易い場所であるか、生き難い

場所であるかは、大変大きなことです。


・最近大きな地震や豪雨がいろいろな所で起きていますが、地震や豪雨によって生活基盤が失われてし

まった人々には、文字通り死活問題です。自然と共に社会もまた、私たちの命と生活にとって重要です。

戦争状態の社会の中では安心して生活することはできません。


・今日のマタイによる福音書の物語は、イエスと弟子たちが舟に乗ってガリラヤ湖に出て行ったとき、

「湖に激しい嵐が起こり、舟が波にのまれそうになった」というのです。


・こういう経験をしたことのある方も多いと思います。私も若いときに二人の子供を連れて、横須賀の久

里浜から金谷までフェリーに乗ったことがあります。最初に赴任した教会の夏期集会が千葉の内房であ

り、それに参加するためでした。ところがその時台風が近づいていて、フェリーが出るかどうか危ぶまれ

ましたが、出航するというので乗り込みました。途中から海が荒れだして、舟がドスーン、ドスーンと激

しく揺れました。二人の子供は船に酔ってしまいました。周りの人も酔って気持ち悪がっている人が大分

いました。私は必死で二人の子供を両手で抱えて、励ましながら、何とか金谷に着いて、ほっとしたこと

があります。


・その経験から、「湖に激しい嵐が起こり、舟が波にのまれそうになった」というマタイの記事を読みま

すと、それは大変な状況だったことが想像できます。


・新共同訳の「湖に激しい嵐が起こり」と訳されているところは、直訳しますと、「海で大きな振動(=

地震)が起こり」(岩波訳注)となります。「嵐」と新共同訳で訳されている言葉は、セイスモスという

語の訳で、セイスモスは元来「地震」を意味します。


・しかし、マタイのこの嵐を静める箇所では、地震では意味をなさないので、新共同訳のように「湖で激

しい嵐が起こり」と訳したり、「海が大荒れとなり」(岩波訳)、「海上に激しい暴風が起こって」(口

語訳)、「湖は大しけとなり」(本田訳)などと訳されています。


・この地震を意味するセイスモスという言葉は、新約聖書の中に14回出てきますが、その内このマタイの

箇所を除いて13回すべてが「地震」の意に用いられています。


・マタイによる福音書ではこの地震という言葉は、終末時に全地に臨む天地異変の一環としての地震(24

:7)、イエスの死に伴った異変としての地震(27:54)、イエスの復活に伴った異変としての地震(28:2)

に用いられています。これらの用法は単なる自然現象としての地震ではありません。


・このセイスモスという言葉の使い方から、髙橋三郎さんは、こう言っています。「マタイはここに(今

日の聖書の箇所で)、神に敵する霊的勢力の攻撃」を、描こうとしたのではないかと思われる。イエス

対岸に上陸した後も、悪霊にとりつかれた人に出会い(28節)、悪霊との対決を敢行することになるのだ

が、その前哨戦は、すでに始まっているのである。こう見ることができるとすれば、弟子たちはただ沈没

の危険に戦(おのの)いただけではなく、むしろそれ以上に、霊的攻撃の矢面に立たされ、死の脅かしを

直感し、大きな恐怖に襲われたのであろう」と。


・舟の中で眠っていたイエスを起こして、弟子たちは「主よ、お助けください。おぼれそうです」と言っ

たと、新共同訳では訳されています。


・この「おぼれそうです」という言葉も原語では「滅びる」という言葉が使われています。岩波訳ではこ

のことろは、「主よ。お救いを。私たちは滅んでしまいます」と訳されています。「マタイのこの言葉は

原始教団の、キリストに対する祈り、信仰告白だ」(ローマイヤー)という人もあります。


・並行記事のマルコによる福音書では、このところは、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないので

すか」となっています(4:38)。マルコは「先生」ですが、マタイは「主」です。マルコの「おかまいにな

らないのですか」に対し、マタイは「お助け下さい」(岩波訳「お救いを」)です。


・マルコはこの時だけのことになっていますが、マタイはそうではなく、ここに教団の、われわれの祈り

があるというのです。マタイは、滅びようとする者がこの祈りをし、それを主が聞きいれて助けて下さる

ということを、ここで書いているというのです。


・嵐によって荒れた海を舟によって渡っていくその舟は、マタイによる福音書の記者にとっては教会を意

味したと思われます。そして舟は、古代教会から今日まで「教会という小舟」と解釈されてきました。


・その小舟にはイエスが寝ているのです。海が激しく荒れて弟子たちは、あわてふためいてしまったわけ

です。でもその舟で寝ているイエスに気づき助けを求めます。イエスは言います。「『なぜ怖がるのか。

信仰の薄い者たちよ』と言って、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった」と。


・弟子たちは彼らの主であるイエスの力と臨在を忘れ去って、嵐で揺れ動く船の中でもはやどうすること

もできないと、不安に駆られてしまったのです。


・マタイはその福音書の最後に、「・・・・わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と記し

ました。主であり、神の子であるイエスが、いつも私たちと共にいることを忘れてしまったとき、教会は

教会でなくなってしまうというのです。


・しかし、その主の臨在を信じるとき、そこに人間の生命の足場があります。イエスがやすろうておわれ

る、そこには風や海が静まる、社会的な環境、自然的な環境も整えられてきます(瀧澤克己)。


・「どんな自然現象であると、社会現象であるとを問わず、どんな危機が襲ってきても決して静けさ・や

すらぎを破られない、揺るがされない、そういう所にイエスは生きていたということです」。


・ところが、イエスを信じるといっても、弟子たちの方は、ちょっと何かが起こるとすぐ、あわてふため

いてしまいます。


・今の世の中というのは、世界中、怖いことばかりです。それでどうしていいか分からない。こういう時

には、この物語のように、主イエスの力と臨在を見失いがちです。。ところが、そういう怖いことがどん

なにあっても、それでゆがむとか、崩れるとかいうことが、けっしてない。人間の生命の足場というもの

は、実際にあるのです。そこにイエスがおられ、やすろうている限り。そこでは風や海が静まる、社会的

な環境、自然的な環境も整えられるのです。


・人を成り立たせ、人を保ち、人を養うということは、やはり自然の環境を整えるということも入ってく

るわけです。それで、神の助けがイエスを通して現れているということです。


・狭い意味での精神的な覚醒という、健康ということだけでなしに、狭い意味での身体の病気を癒すとい

うこと、身体の調子を整えるということだけでなしに、自然の環境を整えるということ、人を成り立た

せ・それを養うという神の助け・神の力という時には、そこまで入っているわけです。


・瀧澤克己さんはこのように言っています。


・「信」という時には、狭い意味で精神的ということではなくて、生命の根元にある、創造の主の光・力

をまともに全身で受けとるということです。そのことの中には、教えをよく聞きわけるということと同時

に、身体を整える、自然の環境を整えるということも入ってなくてはならないわけです。


・そうすると、嵐を停めるとか、海を静にするとかいうようなことも、神の力を受けて人間が働くという

ことが、そのことの中には含まれているわけです。実際、人間はそういうことをずっとやってきているわ

けです。


・神の助けを成り立たしめるその力を現すということの中には、やはり自然の環境を整える人間の働きと

いうものも要求されてきています。


・イエスがなさった通りのことができなくても、やはり本当にイエスがそこで生きておられる、人間の成

り立ちの起点というものを踏まえてイエスに従っているということになると、そうすると、自然現象も含

めてどんなことがきても、絶望するということはない。そういうことなしに、しっかり立って、人間にで

きるだけのことをするということは少なくとも出来るはずです。


・自然の環境を整えるということは、人に課せられた務めであるし、喜ばしい働きであるということを、

本当の「信」であれば、ここのイエスの働きから学ばなくてはならないのです。

(以上滝沢克己による。)


・このイエスの自然奇跡の物語から、少し飛躍するかもしれませんが、原発の廃止や基地廃絶も自然の環

境を整えるということに属するのではないかと思われます。


ガリラヤ湖で嵐が吹き荒れ、イエスや弟子たちが乗っていた船が波に呑み込まれそうになったその状況

は、本来人間を含むすべての生きものが、生きる場所=環境として与えられた自然の一角に、人間が原発

や基地を設置することによって自然環境を破壊している状況をも意味するのではないでしょうか。


・イエスが安らうことによって、神に敵する悪霊の支配を破り、自然や社会の環境が整えられ、人間を含

めすべての生きる者がそこで安心して平和に生きることができる、それが今日の自然奇跡が語るメッセー

ジであるとすれば、自然破壊につながる原発や基地を撤去し、ありのままの自然環境を取り戻すことも、

エスの働きから私たち人間に課せられた務めではないでしょうか。


・横須賀は軍転法(旧軍港都市転換法)によって、京都の舞鶴、広島の呉、長崎の佐世保と共に、「旧軍

港市を平和産業都港湾都市に転換することにより、平和日本実現の理想達成に寄与する」ことを求められ

ました。軍転法が公布・施行されたのが1950年(昭和25年)です。


・軍転法では、旧軍用財産を無償または減額して譲渡するなどの特別な措置が定められていて、一部旧軍

用財産が、学校、公園、道路、港湾をはじめとする公共施設や市の産業経済を支える民間施設用地へと転

換、活用されましたが、軍転法の目的が果たされているとは思われません。むしろ横須賀は米海軍基地が

居座り、海上自衛隊の基地も強化されています。平和産業港湾都市どころではありません。


・イエスの自然奇跡からすれば、基地の無い横須賀を取り戻すことが、横須賀の自然環境を整えることに

なります。そのことも、この箇所からのメッセージとして受け止めておきたいと思います。


・祈ります。