なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(41)

  「枕する所もない」マタイ8:18-22、2019年6月30日〈日〉 船越教会礼拝説教


・この数回私たちは、マタイによる福音書の8章1節から17節までで、いずれも病気の人をイエスが癒す奇

跡物語から、何が私たちに語り掛けられているのかを聞いてきました。そのような奇跡物語は、マタイに

よる福音書では9章の終わりまでずっと続いています。しかし、その中に奇跡物語におけるイエスの奇跡

行為ではなく、イエスの言葉が中心になっている物語が出てきます。今日のところ(8:18-22)もその一

つです。18節に≪イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じら

れた≫とあります。


・イエスの弟子とは、イエスに従う者のことです。群衆はどちらかといいますと、自分が苦しんでいる病

や悪霊からの癒し・解放を求めて、イエスの所に来る者のことです。ここでは「群衆」と「弟子」が分け

られています。


・私たちとイエスとの関わりは、群衆の一人としての関わりと弟子の一人としての関わりが、どちらも自

分自身の中にあるように思えます。


・昨日の教区総会で准允を受けた5人の中の一人の方が、その所信表明でこのように語っていました。

「自分はセクチャリティーの問題で悩んでいた時に、導かれて洗礼を受けた。その後医者から癌ステージ

4、余命6っか月と宣告されたが、奇跡的に助かり、この生かされた自分の命をイエスの福音を語る伝道

者として生きたいと思い、神学校を卒業して教団の教師検定試験にも合格し、教団の教師として、今自分

が招かれた教会の伝道師として働くために准允を志願している」とおっしゃっていました。この方の所信

表明の中にも、群衆の一人としてイエスと出会い洗礼を受け、イエスに従う弟子として生きてい行こうと

していることが示されていると思います。


キリスト者の中には多かれ少なかれ、そのような群衆の一人としてイエスに出会い、救いや解放を経験

して、イエスに従う者になったということがあるのではないではないでしょうか。しかもそれは一度だけ

でなく、ひとりの人生の中で群衆の一人としてイエスに出会うことと、弟子の一人としてイエスに出会う

こととが、繰り返し起こっているのではないでしょうか。


・そういう意味では、今日のマタイによる福音書の箇所は、弟子としてのイエスとの私たちの関わりが

テーマになっている物語ではないかと思います。新共同訳聖書では「弟子の覚悟」という表題がついてい

ます。


・「覚悟」という日本語の意味合いは、私たちの心構えを表しているように思われます。たとえば、中学

生や高校生が、学校の音楽の授業の時に順番にみんなの前で歌を歌たわなければならないようなときに、

自分の番がきたので、足が震えたが覚悟を決めて歌ったというようにです。しかし、覚悟という言葉の意

味を国語辞典で調べてみますと、広辞苑では、第一番目の意味に、仏教用語なのでしょうか、括弧で仏と

あって、〈迷いを去り、道理をさとること〉となっています。


・道理とは、物事の正しい筋道、人として行うべき正しい道ということですから、覚悟をそのような意味

で受けとりますと、「弟子の覚悟」とは、弟子が自分の歩むべき本来の道、本当の道を見出すことという

風に理解できます。


・新共同訳の翻訳者が「弟子の覚悟」という表題に、どのような意味を込めているのかは、よくは分かり

ません。しかし、このマタイによる福音書の8章18-22節に記されています、「ある律法学者」と「弟子の

一人」とのイエス問答に出てきますイエスの言葉、〈狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の

子には枕する所もない〉と〈わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい

(死人を葬ることは、死人に任せておくがよい)〉は、二つとも、弟子の心構えを促すというよりも、弟

子たるものがどこに根拠を置いて生きるかという道理をさとす面が強いように思われます。


・〈狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない〉というイエスの言葉は、

<先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります>というある律法学者の問いに対する

エスの答です。


・<人の子には枕する所がない>とは、「わたしには枕する所がない」ということです。ですから、ここ

での「人の子」はイエスが自分を指して「人の子」と言っていますので、イエスの自称と見ることができ

ます。福音書の中で同じ自称として「人の子」がイエスの受難との関連で使われているところがありま

す。<人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する>(マタイ

17:22-23)。です。


・また、人の子についは、イエスの自称ではありませんが、イエスが語ったとされる言葉として旧約聖書

のダニエル書7章の〈人の子のようなものが雲に乗ってやってくる〉があります。これは「人の子」が終

わりの時の審き主として来られるという意味です。


・このようにイエスの受難や終わりの時の審き主との関連で使われている「人の子」を踏まえて、「人の

子には枕する所がない」というイエスの言葉を受け止めなければならないと思われます。そうしますと、

一つは、イエスの受難との関連で、人の子には枕する所がない、と言う言葉が語られているということで

す。もう一つは、終わりの審き主との関連で考えれば、イエスは、枕する所なき自分のほんとうの仕事・

意味は終わりの日にさばきをすることにある、と言われとも考えられます。


・ですから、「9章を見ますと、イエスには御自分の町があり、また御自分の家もあったようでから、

『枕する所がない』ということも、家がなくて野宿する、という意味ではないでしょう。イエスの本質、

ありかた、使命が、この地上には自分の枕を高くし寝る所をもたない、自分の心を休める所、本拠が地上

にない。イエスは天から来た人の子であり、終末の日に再び天から来る人の子なのだ」(滝沢克己)と言

われているのではないでしょうか。


・イエスは、世の終わりの審き主として地上に遣わされ、彼の運命は人々から唾をはきかけられ、遂には

十字架にかけられて殺されるのです。それが「人の子には枕する所がない」という意味なのです。


・ですから、「イエスの弟子になるとは、彼にあってすばらしことを見出すことになる、というのではな

く、地上からたたき出される、人間の関係からつまはじきされる道におのれを見出すことになる、とい

う」ことなのです。


・それが、〈狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない〉と、イエスが<

「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言ったある律法学者に対するイエ

スの答なのです。この律法学者がそこまでの覚悟をもっていたかどうかは分かりません。しかし、イエス

の弟子となるについて、そのことを考えておくことは、中心的な問題なのだと、このマタイ福音書の箇所

は語っているのです。


・しかしこのようにイエスに従うことを、ただ苦しい道を歩くということだけにとるとすれば、それは福

音を誤解していることになります。イエスに従う者は、この地上では旅人、寄留者と言われます。この世

に深くコミットしますが、この世に呑み込まれてしまうのではなく、この世にあって、「みこころの天に

なるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る者として異質な者として生きているのです。そのことは、この

世にあっては確かに苦しい道ではあるかも知れません。しかし、イエスに従って生きるその道には私たち

を生かす真の喜びと命であるというのです。


・22節の≪「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(死人を葬る

ことは、死人に任せておくがよい)≫というイエスの言葉の背後には、≪わたしは道であり、真理であ

り、命である≫(ヨハネ14:6)というイエスの存在があるのです。「復活を生きる者の現実の力が、この

言葉にはこもっているのです。・・・キリスト教的な生は死んで生きている、ということである。・・・信

仰は、この地上ではキリストと共に死んでしまった、ということであり、同時に復活の生を生きているこ

とである。・・・直接的には地上の生にとらわれない。そうでなければ、有頂天になっているか、絶望する

かどちらかである。信仰者であっても信仰に絶望しているとすれば直接的に生きているのである」。


滝沢克己さんは、このイエスの言葉を、「この世のことをユーモアを以って受けることのできる自由な

人間かどうかが問題なのである。神の支配の中に生き、そのように生きるのが真の人間であるということ

を伝えよ、それが君のつとめだというのである。


・べつに親不幸をせよとすすめているのではない。親をすてねばならぬ時もあるが、外側の形がどうとい

うことではない。問題はほんとうに死んでいるかである。それは自分の罪をしらされ、罪、罪と言ってい

ることではない。その罪を十字架の主の故に忘れているということである。われわれは、各自家族関係を

もちこの世に生きてゆくことが、どんなに重要なことかを知っている。だから上にのべたことは大切なの

である。われわれに一番近い所でこの世のものと接触している。その場所で福音に生きよというのが、イ

エスの弟子への重要なすすめである」。


・この地上を「枕する所もない」者として歩まれたイエスは、私たちにとっても「道であり、真理であ

り、命でる」方なのです。その方が「わたしに従って来なさい」と、今も繰り返し私たちを招いている招

きに応えて、命ある限り地上と天(神の国)の境界を天(神の国)に属する者として歩み続けたいと願い

ます。


・主がその私たちの歩みを支えて下さいますように!