なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(30)「命のために働く」ヨハネ6:22-27

9月3(日)聖霊降臨節第15主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌     205(今日は光が)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-205.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編31編15-25節(讃美歌交読文32頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書6章22-27節(新約175頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    346(来たれ聖霊よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-346.htm

⑨ 説  教     「命のために働く」         北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

最初に、前回のヨハネ福音書の箇所を想い起こしておきたいと思います。

 

エスのなさった五千人の共食のパンの奇跡の後、イエスは、群衆がイエスを王にしようとしたので、山に退かれました。夕方になっていたので、弟子たちは、自分たちだけで舟に乗ってカファルナウムに行こうとしました。舟は途中で嵐に会います。すると、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて来られるのを見て、恐れます。そのような弟子たちに対して、イエスは「私だ。恐れるな」と言われます。そこで、弟子たちはイエスを舟に迎え入れようとします。すると「直ちに舟は彼らが向っていた土地に着いていた」(21節)というのです。これが前回のヨハネ福音書の記事です。それに続いて、今日の箇所があります。

 

22節から25節までを、もう一度田川訳で読みますと、「翌日、湖の向う岸にいた群衆は、小舟が一艘だけあって、他の一艘がいなくなっているのを見た。そしてイエスが自分の弟子たちと一緒に舟に乗らず、ただ弟子たちだけが出発した、ということも。他の小舟が数艘ティベリアスから来て、〔主が感謝した時に〕彼らがパンを食べた場所の近くまで来た。それで群衆は、イエスがここにおらず、彼の弟子たちもいない、と知った時に、彼らもまたそれらの小舟に乗って、カファルナウムまで来て、イエスを探した。そして海の向う岸で彼を見つけて、彼に言った、「ラビ、何時ここにお出でになったのですか」(田川訳)――そのように記されています。

 

<少しごたごたしていて解りにくいかと思いますので、簡単につづめて言うと、こういうことでなります。――先ず、「翌日」とありますように、これは1節以下に記されていた、イエスが五千人にパンを与えるというあの奇跡が行なわれた次の日のことであります。あの奇跡が起こったのは、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムから七キロほど離れた所であると言われていますが、群衆はまだその奇跡が行なわれた所に留まっていました。そしてイエスは、群衆が気付かないうちに、カファルナウムに帰っておられたのです。そのことに気付いた群衆は、何艘かの舟に分乗して、イエスのあとを追い、カファルナウムに行きます。そこでイエスと再会するわけですが、その再開の場所は、ここには何も書いてありませんが、ずっとあとの59節によると、それはユダヤ教の会堂でのことであったようです。群衆は、自分たちの知らない間にもうカファルナウムにおられるイエスに驚いて、「ラビ(先生)、何時ここにお出でになったのですか」と尋ねます。それは、彼らにとっては、当然の質問であったにちがいありません。しかしイエスは、それには答えず、彼らの人間としての一番大切な問題、中心的な問題にすぐ入っていかれます>(井上良雄『ヨハネ福音書を読む』より)。

 

次の26節、27節を読みますと、「彼らにイエスが答えて言った、『アーメン、アーメン、汝らに告ぐ、あなた達は徴を見たから私を捜しているのではなく、パンを食べて満足したから捜しているのだ。失われる食べ物(口語訳「朽ちる食物」)を得るために働くのではなく、永遠の生命へと向って持続する食べ物(口語訳「永遠の命に至る朽ちない食物」)のために働きなさい。それは人の子があなた方に与えるものである。何故なら人の子にこそ父なる神は押印したのだ』。」と書かれています。

 

ここでイエスは、「あなた達は徴を見たから私を捜しているのではなく、パンを食べて満足したから捜しているのだ。」と言っておられるように、群衆にとっては、イエスという方は、そのような方に過ぎなかったのです。彼らにとっては、イエスは、自分たちにパンを与えてくださる方――それ以外の方ではありません。したがって彼らは、あの奇跡が起こった時に、イエスを自分たちの王にしようとしたということが、15節に書いてありました。つまり、彼らにとってイエスは、自分たちの飢えを満たしてくださる方、自分たちの欠けを補って下さる方――それ以上のものではないのです。

 

井上良雄さんは、「しかし、私たちは、彼らのそういう態度を、余りに性急に批判してはならないと思います」と言って、このように記しています。「もちろん、私たちがイエスに期待するのは、ここでのこの群衆がイエスに期待しているようなものではないかも知れません。それは、単に空腹を満たすパンというようなものではなく、もっと高尚で、もっと精神的なものであるかも知れません。しかし、それがやはりこの群衆の場合と同じように、自分の欠乏を満たしてくれるものに過ぎないということがあり得るのです。しかし、昨日、あの五千人にパンを与えることによってイエスが為さろうとしたことは、単にそのようなことではありませんでした。単にパンを分け与えて、群衆の飢えを満たすということが、その目的ではありませんでした」。

 

27節で彼が言っておられるように、イエスにとっての問題は、「朽ちる食物」ではありません。もちろん、人間にとって朽ちる食物であるパンが必要なことを、彼は十分ご承知です。それゆえ彼は、「主の祈り」でも、日毎のパンのために祈ることを私たちに許しておられます。むしろ命じておられます。しかし、それと同時に彼は、究極の問題が「朽ちる食物」としてのパンではないということを――究極の問題が「永遠の命に至る朽ちない食物」であるということを御存じなのです。昨日彼があのような奇跡を行なわれたのも、群衆にパンを与えるという、そのことのためではありませんでした。それは、「朽ちる食物」を通して、「朽ちない食物」を指し示すためでした。

 

前回学びましたように、一般に奇跡は、奇跡自身のためにあるのではありません。奇跡を越えた究極的なもの、神の国を指し示すためにこそ、奇跡は起こるのです。そして人々を信仰へと招くためにこそ、奇跡は起こるのです。そのような、永遠に至る朽ちない食物こそ、イエスが私たちに与えようとされるものです。それこそ、父なる神がイエスに委ね給うたものであります。ですからイエスは、27節で、「失われる食べ物(口語訳「朽ちる食物」)を得るために働くのではなく、永遠の生命へと向って持続する食べ物(口語訳「永遠の命に至る朽ちない食物」)のために働きなさい。それは人の子があなた方に与えるものである。何故なら人の子にこそ父なる神は押印したのだ」と言われます。

 

このヨハネ福音書のイエスの27節の言葉は、マタイ福音書6章25-34節の「思い悩むな」というイエスの山上の説教の一つを思い起こさせてくれます。この「思い悩むな」でイエスは、食べ物や衣服のことで思い悩む私たちに対して、「空の鳥、野の花」が神の庇護の下にあるとすれば、あなたがたはなおさらそうではないかと言って、このように語っています。<信仰の薄い者たちよ。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことはご存じである。何よりもます、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことを思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である>(マタイ6:30-34、新共同訳)。

 

しかし、イエスがそのように言われても、群衆はそれを理解しません。むしろ、そのようなイエスの言葉を、全く誤解してしまうのです。(そのことは次回に考えたいと思います)

 

さて、今日のヨハネ福音書の箇所から第一に学ぶことができるのは、イエスは人の心を見抜く方であるということです。私たちは、ヨハネ福音書のイエスがパンや魚のゆえにご自身について来た者たちの、誤った動機をあばいておられるのを見ます。彼らはガリラヤ湖を渡って、イエスについて来ました。一見したところでは、彼らはすぐにもイエスを主と信じるように思われました。しかし、イエスは、彼らのしていることが、彼らの内側のどこから出て来たかを知っておられ、欺かれることはありませんでした。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たかれではなく、パンを食べて満腹したからです」とイエスは言われました。ライルは、そのように人の心を見通すイエスは今も同じ方である、ということを決して忘れてはならないと言っています。人を欺くことはできるかもしれませんが、主イエスを欺くことはできないと言うのです。キリスト者としてのうわべは形になっていても、私たちの心がまっすぐにイエスに繋がっているかどうかです。「主よ、あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私たちがあなたを愛することを知っておいでになります」(ヨハネ21:17)と言うことのできる人のように、です。私たちはそのような人の一人でありたいと願います。

 

次に、この箇所で注意すべきことは、イエスがパンと魚のゆえにとても熱心に御自分について来る群衆に、「朽ちる食物のために働かないように」と言われたことです。この言葉が私たちに「働かないように」と、ただ怠慢を勧めているのではないことは、確かです。聖書の創世記3章の堕罪物語の中でも、労働は、堕落の後に、人間の務めとして定められています。労働はすべての人にあって、尊重されるに値するものです。イエスご自身も、ナザレの大工の仕事場で働かれました。パウロもテントを造る者として、自らの手で働いたのです。

 

ここでイエスが言っているのは、生活の維持のためにだけ働くことに私たちの心が向かいすぎることであって、人間の罪からの解放という、私たち人間にとって必要不可欠な救いへの渇望をもって生きていくということではないでしょうか。先ほど引用したマタイ福音書の「思い悩むな」というイエスの説教の中に、「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(食べ物や衣服)はみな加えて与えられる」と言われていたのは、そのことをイエスは語っているのではないでしょうか。それが、この個所の中では、「永遠の生命へと向って持続する食べ物(口語訳「永遠の命に至る朽ちない食物」)のために働きなさい」と言われているのです。

 

ライルは、「私たちはどのように働くべきなのであろうか」と問い、「これにはただ一つの答えがあるだけである」と言って、このように述べています。「私たちは、指定されたすべての手段を用いて働かなくてはならない。隠された財宝を発掘する人々のように、聖書を読まなくてはならない。そしていのちを賭けて危険な敵と戦う人々のように、真剣に祈りに取り組まなくてはならない。また、私たちの心のすべてを神の家に携えて行って、礼拝をし、遺言の朗読に耳を傾ける人のように、聞かなくてはならない。自由のために戦って勝利しなければ、奴隷とならなくてはならない人々のように、日々、罪とこの世と悪魔と戦わなくてはならない。これらは、私たちがキリストを見出し、キリストのものとして見出されようとするなら、歩まなくてはならない道である。これが「働くこと」である」と。なかなか厳しいことですが、確かにそれ以外には私たちに「朽ちない食物」を得る道はないでしょう。

 

27節の後半を口語訳で読んでみたいと思います。「これ(「朽ちない食物」)は人の子(イエス)があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子(イエス)にそれをゆだねられたのである」。「朽ちない食物」は、求める者に主イエスが必ず与えて下さるとの約束を信じて、私たちは「朽ちない食物」のために働くものでありたいと願います。

 

主がそのように私たち一人一人を導いてくださいますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日は、私たちが「朽ちない食物」である「永遠の命」である私たち人間の救いのために働くことの大切さを、聖書から教えられました。現実はその私たちの働きが弱く、この世界に住む私たち総体は、「朽ちる食物」を奪い合って、死と滅びに向かって、崖から落ちるかのように思われます。神さま、どうか私たちに「朽ちない食物」のために働く力を与えて下さい。先ず神の国と神の義を求めて生きる信仰を強くしてください。
  • 今私たち人間の奪い合いの中で、苦しみ、悲しまなければならない多くの人々を、あなたが支え、生かしてください。私たち人間を、あなたの愛を受けて、互いに愛し合う者にしてください。
  • 神さま、関東大震災100年に当たり、流言飛語に踊らされて、私たち日本人が日本に住む外国人、特に朝鮮人を虐殺した負の歴史を心に刻み、この国にあって、二度と再びそのようなことが起こらないように私たちをお導きください。
  • 様々な苦しみの中にある方々を助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

⑩      56(主よ、いのちのパンをさき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-056.htm

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。