なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(29)

       マルコ福音書による説教(29)  マルコ8章1-10節

・このマルコのよる福音書の沢山の群衆をわずかのパンで満腹させたイエスの物語は、すでに殆ど同じ物語として6章30節以下にありました。今日の所は、二度目になります。前回にも触れましたが、それだけこの物語は、初代の教会の中で広く、また大切なイエスの物語として語り伝えられ、愛餐や聖餐の度ごとに思い起されていたのでしょう。今回は、イエスが身体的な飢え、空腹にある人々をそのままにしておこうとされなかったという点に焦点を当てて、この物語が語ろうとしているところを学んで見たいと思います。

・2節をもう一度読んで見たいと思います。そこには、イエスの語られたと言われている言葉があります。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くからきている者もいる」。このイエスの言葉には、イエスに従って来て、空腹になっている群衆に対するイエスの深い配慮があらわれています。ここでのイエスは、「群衆が空腹のままそれぞれの村や町に帰っていくのをしのびなく思い、彼らのからだのことを配慮する人」(荒井)であります。

・このような言い伝えが残っているということは、日毎の糧に事欠く民衆がイエスに託した願い求めがあったと考えて良いでしょう。荒井献さんによれば、「この希求(願い求め)をイエスが実際に満たしたか否かは別として、ユダヤ教の掟を破ってまでも『罪人』(その中には貧者も含まれる)と共に食事をしたイエスが(マルコ2:15-17)、彼らの希求(願い求め)に即する形で振る舞ったであろうことは想像できる」と言っています。すなわち、イエスは心と肉体を分けて、肉体のことについては全く無関心で、ただ心の在り方だけを大切にされたのではありません。その逆も言えます。心の在り方については無関心で、肉体のことについてだけに目を向けられたのでもありません。心と肉体を備えている人間全体と向かい合っておられるのです。

・〈もう三日もわたしと一緒にいるのに〉(2節)と言われています。群衆の一人一人は、イエスから教えを聞く者、病気をいやしてもらおうとする者、悩みをかかえてその解決を求めている者など、皆熱心にイエスの後に従っていったのでしょう。彼らの悩みが深く、切実にその助けを求めていたためか、群衆は、自分たちが空腹になっていたのも忘れる程であったのかも知れません。少なくとも、この物語の中には群衆が自ら飢えを訴えているところはありません。空腹を忘れてしまうほど、彼らはイエスと共にいることで、心がいっぱいだったのかも知れません。彼らのいたところは荒野であったと言われます。荒野はどこからも簡単にパンを手にいれることは出来ません。生存の保障されている所ではないのです。

・この荒野にイエスと共に集まっていた群衆は、生活は保障されている、しかし、心はどことなく満たされない、その自分の心の空しさをいやしてもらうために、イエスのところに来たのではありません。或は身体(からだ)のことは自分で責任をもつ。しかし、魂のことは、どうも自分の手にあまるから、というのでもありません。いわば、ご都合主義的に、イエスの前に立っているのではなく、全身全霊でイエスにぶつかっているのではないでしょうか。イエスと共に始まっている神の新しい世界に魅せられて、と言ってもよいかも知れません。あの聖書に出てくる富める青年のように、財産もあり余るほどあって、物質的生活には、何一つ心配がなく、ユダヤ人社会の中で、ファリサイ的律法理解において、つまり、決められている規定を破らないという点でも、小さい時から完全に守っていた人間、しかしそれだけでは〈永遠の生命〉を得ているとは思えなかったので、イエスに「永遠の生命を受けるにはどうしたらよいか」と尋ねた人のように。彼は確かに真剣に悩み、真剣に求めていたにちがいありません。しかし、この青年は、一方において、この地上の確かさ(財産、規定を守る人)に依り頼み、そこでまだ十分に満たされない部分をイエスに求めたのです。その意味で、ここに出てくる群衆や弟子たちとは、イエスとの関わりの在り方が基本的にちがっていたのでしょう。

・イエスは〈空腹〉という身体的窮乏のためにも十分配慮をされる方です。主の祈りの中に、「われらの日用の糧を与えたまえ」という祈りが、「み名をあがめさせたまえ」「み国を来たらせたまえ」「み心の天になるごとく地にもならせたまえ」に続いて加えられていることにおいても、それは明らかです。イエスに従う者は、「町や村」によって保護されている生活から、イエスのおられる「荒野」に出ていくのです。「荒野」は象徴的な場所です。この地上にあって、しかも「町や村」とちがい人間がつくりだしている秩序や文化の影響から自由な場所です。それだけに「町や村」が保障する生活はそこにはありません。しかし、そこにはイエスが保障する生活があります。神が保障する生活があるのです。

・4節を見ますと、弟子たちが「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」と言ったと言われます。この弟子のつぶやきは、旧約のモ-セに導かれたイスラエルの民が荒野でモ-セとアロンにつぶやいたつぶやきと同じです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられた。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(Ex.16:3)。

・これは、弟子たちの、そして私たち自身のつぶやきでもあるのではないでしょうか。しかし、このつぶやきがあるということは、大事なことです。何故ならつぶやきは荒野に立つイエスに従おうとして、従いえない己のあらわれだからです。乳と密の流れる約束の地カナンを目ざす途上にありながら、エジプトの肉鍋がこいしいという神の民の自己分裂です。そしてそれは、神の前には否定されるべき、神の民の不信仰でもあります。だからつぶやきがあるということは、途上にあるということのしるしでもあるのです。荒野の中でつぶやきが起きます。その意味で荒野は危険な場所です。前進と後退の分岐点でもあります。その荒野でわれわれのつぶやき=不信仰が露呈されるのです。だが、それが最後の事柄ではありません。このパンの物語は、そのことをはっきりと示しています。

・「そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝して祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。また、小さな魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。人々は食べて満腹しが、残ったパンの屑を集めると,七籠になった」(6~8節)。

・〈空腹〉と〈つぶやき〉が、イエスの祝福によって完全に凌駕されてしまったのです。〈七つのパン〉しかないことに絶望している弟子たちに対して、イエスは〈七つのパン〉で四千人を養い、残ったパンくずが七かごになる程に恵まれるのです。 われわれは、何も食べるものがない空腹の群衆と弟子たちのつぶやきのただ中において、イエスが何をなされたかということに目を向けなければなりません。イエスに目を向けるとき、われわれの生活が本来の姿へと目覚めさせられるのです。「まず神の国と神の義とを求めよ。そうすればこれらのものはすべて添えて与えられる」という約束によって、その生活を立てる者へと。

・パンの奇蹟が行われた荒野は弟子たち(私たち)にとって前進か後退かの分岐点です。少しのパンと魚で4000人もの群衆が満腹するなどということはあり得ないと、群衆や弟子たちがその荒野から立ち去ってしまったとすれば、様々な悩みや痛みを抱えた群衆がイエスを中心に一つになってみんなが満腹するという世界と永遠に出会うことはできなかったでしょう。そんなことはありっこないという不信仰によっては、荒野から後退する以外にないからです。しかし、イエスはパンの奇蹟によって、みんなが心も体も満ちる神の支配の現実を啓示します。荒野はそのような神の国へと前進する場所でもあるのです。

・このイエスのパンの奇蹟と象徴的に近いものとして、寿では金曜日に炊き出しが行われています。一週間のうち一回だけですが、日雇い労働、野宿者、支援者がみんなで一緒に飯を食います。もちろん、この炊き出しだけでは、その日の食にも欠ける人を満たすことはできません。でも炊き出しには、その一回の食事に込められている思いがあります。イエスのパンの奇蹟のように、みんなが満腹して、心も体も満ちる、そんな社会を創り出したいという思いです。炊き出しはみんなが満腹して、心も体も満ちるそんな社会の先取りでもあります。

・イエスのパンの奇蹟のようにみんなが満腹する神の支配する国の祝宴を信じ、そこに向かって前進する者でありたいと願います。