なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(70、復刻版)

今日は「黙想と祈りの夕べ通信(70、復刻版)」を掲載します。

 下記の中にあります言葉、「つくづく人間は解決できない海の中を生きている」を、70歳になってしみじみと味わっています。

        黙想と祈りの夕べ (通信 70[-18] 2001・1・28発行)

 50歳になろうとしている兄弟が、ガン治療のために入院しています。先日彼を見舞いましたが、比較的元気で、転移したところの放射線治療を終えて、これから原発のところの抗癌剤治療に入るところでした。ベットの台の上には、ガンについての本やインフォ-ムド・コンセントによる医師のメモが置かれていて、彼の姿勢が伺えました。体力があるので、病気の進行の早い反面、治療に耐えることも可能なので、よく食べるようにしている。外泊が許されたときにも、できるだけ美味しいものを食べようと思うと。それからしばらくして、隔月に聖書のお話をしに行っている鎌倉静養館に伺いました。十数名の出席者の中には、今まで一度も大きな病気をしたことがないという90歳の女性の方がいらっしゃいました。彼女は今もストレッチ体操のようなものをやっていて、元気そのものだと言うのです。体の健康状態について、彼のことがありましたので、いろいろな方がいらっしゃることは十分承知してはいましたが、ある種の不条理を感じてしまいました。以前「変わり得ることは人間としてできるだけのことを努め、変わり得ないことは素直に受け入れること」の大切さを、話しもし、自分も本当にそうだと思ったことがありましたが、今回の彼のことを知って、私としては改めてそのことを思わされました。彼のことを憶えて祈っていきたいと思います。

 上記のような私の発言に続いて、一人の姉妹が、先週の聖研の後、私が小さなグル-プでお互いの思いや苦しみを分かち合いながら、聖書の言葉が開く世界に聞くことの大切さをお話しましたので、自然に数名の方が帰りに道端で集まり、いろいろな話をして、第一回の路傍の集いになりました、と報告してくれました。そして、そのような集いを求めている諸兄姉も多いのではないかと、付け加えました。また、仕事でモザンビ-クに出発した息子の健康のことが気遣われるので、予定していた戦地をめぐるクル-ズを断念し、息子が帰って来たときに、家で迎えることにし、気持ちの整理ができてすっきとしたと。

 別の姉妹は、最近友人の病や心悩む若者に出会うことが多い。何事でも与えられる時には人は受け身だが、その後その重荷を抱えて生きていくときには、自分自身で帆を張っていかなければならない。だが、そのような人間の業も基本的には受け身のように思える。けれども、不合理なこと、受け入れられないことも多い。自分が同じような病や苦しみに直面したとき、どうなるか分からないが、「主が与え、主が取り給もう。主のみ名はほむべきかな」という言葉を思う。はじめも終わりも受け身、その間も、ある意味では受け身。与えられた自分の時を生きたいと思う。また与えられた他の人との関わりも丁寧に生きていきたい。生かされている一人一人と祈りの中で生きていきたいと感じている。

 はじめて「黙想と祈りの夕べ」に参加した一人の兄弟は、病に臥している方、悩んでいる方のことを思うと、何もできない。できることと言えば、祈ることだけだな-と思う。若いときは、祈りよりも行動で解決しなければと思っていた。つくづく人間は解決できない海の中で生きているのだなあ-と思う。解決しきれないことをあずけることによって、楽な気持ちにならせてもらえればと思う。日々の生活では一つ一つ処理しなければならないことは、それをしつつ、静かなあずける時をもつようにしたいと思っていると。
 「つくづく人間は解決できない海の中を生きている」という彼の言葉が、私の心に強く響きました。