なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(69、復刻版)

 昨夜紅葉坂教会時代の信徒の方が帰天され、前夜式に伺いました。昨年3月末で紅葉坂教会牧師を辞してから、その後前夜式か葬儀式に紅葉坂教会に行きましたのは、これで5回目です。天上の仲間が増えていきます。

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(69、復刻版)」を掲載します。以下の中にも、かつて私が牧師として見送った高齢の方の帰天について記してあります。お年寄りの方が、家族や周囲の方から「いてくれるだけでうれしい」と言われながらその人生の最晩年を過ごせる幸いについて記してあります。また、「自立と共生」について、「幻想」からの解放という視点から短く書いてありますので、ご参考にしていただければ幸いです。

         黙想と祈りの夕べ (通信 69[-17] 2001・1・21発行)

 前日の1月13日午後に、私たちの教会の最年長者でありましたKさんが召され、私はKさんの鶴見の自宅へ伺いました。ちょうど2年程前に、Kさんが100歳のお誕生日の頃、アメリカ在住の次男の方がお祝いにいらっしゃいましたが、Kさんの意識がなくなり、もしかしたらという時がありました。葬儀屋さんも自宅に呼ばれ、用意万端という時に、意識が戻りました。それから約2年ベットでの生活が続き、クリスマスの頃には大分弱ってきているとのことでしたが、年があけて、21世紀の始まりに召されました。Kさんの誕生は1899年ですから、まさに3世紀を生きたことになります。私は年に1、2回の訪問でしたが、伺う度にKさんは、頭がボ-として何の役にも立たず、みんなに迷惑をかけてね-、と申しました。その傍で長男のお連れ合いとお孫さんが、おばあちゃん、そんなことを言わないでね-、と言って、一生懸命にお世話されるのです。家族の方々に大切にされている様子が伝わってきました。13日に伺ったときにも、親戚の方とのやりとりの中で、こ子息は、「いてくれるだけで…、淋しくなります」とおっしゃっておられました。「いてくれるだけで」とまわりの人から思われて生きて行くことができたら、その人は安心して生きて行けるのではないでしょうか。Kさんを通して、その存在が根底からまわりの人から肯定されて生き得る人の幸いを、改めて教えられました。

 上記のような私の発言に続いて、「分かち合い」では一人の姉妹が、自立と共生について以下のような発言をしました。

 その日の婦人会でAさんが、ご自身の研究である北村透谷の妻について発表した。その話を聞きながら、自立については教会でも問題とされているが、女性の自立ということを考えさせられた。自立は自分にとっても長い間のテ-マであるが、以前から精神的な自立と経済的な自立が両立しないと、女性の本当の自立はないように思っている。女性が男性を支える。男性は自立しているかというと、妻に依存しないと男社会では生きていけない。男性も自立できていないのではないか。自立することと共に生きること(共生)とが両立するような、その人がその人らしくあることと、男女が伸びやかに共に生きるということはどういうことなのか。透谷の妻は、2歳の娘を母親に預けて、自分は留学し、帰国後教鞭をとり、晩年娘に世話をしてもらえないと嘆いたというが。透谷の妻の話を聞いて、自分なりに女性の自立はどういうことなのか、答えを出せないはがゆさを感じた。今後、自分もこの問題を前向きに考えて行きたいが、教会のみんなとも考えて行きたいと思うと。

 自立と共生を問うていくときに、すでにそれぞれの精神に浸潤している共同幻想、対幻想、自己幻想を問わなければならないでしょう。ここでの幻想とは、思い込みと言い換えてもよいかも知れない。3人以上の関係性を共同幻想と言い、同性でも異性でも一対一の対のもつ関係性を対幻想と言い、自分の自分に対する関係性を自己幻想と言うとすれば、それぞれにおいて私たちは思い込み(幻想)によって生きているのではないだろうか。家族、会社、国家という共同幻想、夫婦、友人との間の対幻想、自分自身への幻想によって、歪んだ関係性をすでに生きているのです。自立と共生が目指すものは、すでに生きているその歪んだ関係から、その人らしく互いが共に生き得る新しい関係性への模索と言えないだろうか。