なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(13)

 21日の日曜日から22日の月曜日にかけて、神奈川教区福祉小委員会主催の「障がい者と教会の集い」に参加しました。毎年行われている集まりですが、その都度新しい発見が与えられます。今年は全盲の方がただ受け身ではなく、一緒に働くことができるためにめには、何が出来て何が出来ないかを、お互いに知っていて、しかも時間をゆったりととってゆくことが必要であるということが、話の中ででてきたした。教会などでは、どうしても受け身になって、お世話される立場に置かれてしまうというのです。異質な他者との関係の在り方について、改めて考えさせれました。
 今日はこれから明日のお昼まで船越教会でフェミニスト神学の会があり、私も参加します。「黙想と祈りの夕べ通信」(13)を掲載します。
  
黙想と祈りの夕べ
   (通信№ 13 19991226発行)
 
 教会はどのような方々によって支えられているのでしょうか。その広がりの輪の大きさ・深さを思わされます。19日の「黙想と祈りの夕べ」では、19日(日)のクリスマス礼拝までにと、その前夜、介護している妻が休んでいる合間にと、教会に献金を届けて下さった兄弟がいらしたという報告がありました。その兄弟も高齢で、三ツ境のお宅で体の不自由なお連れ合いと生活しています。ヘルパ-や近くに住んでいる娘さんがお二人を支えておられますが、自分たちの荷を黙々と担って生活しておられます。私が年に数度ですが、たまにお訪ねすると、必ず教会のために何もできずに申し訳ないと、おっしゃいます。今年も10月はじめに教会からの敬老のプレゼントをもってお訪ねしました時に、先生をわずらわして申し訳ないがとおっしゃって、今までたまっていたからと献金を託されました。確かその中に昨年のクリスマス献金が入っていました。これを今年の分にしましょうと、私が申しましたら、いや今年は今年だから、それは感謝献金に回してくださいとおっしゃいました。クリスマス礼拝の前夜献金を教会に届けてくださったのは、今年はどうしてもクリスマスに間に合わせたいという兄弟の律儀さなのでしょう。
 教会は、このような普段は事情があって礼拝に出席できず、教会の活動にも直接には加われない多くの兄弟姉妹によっても支えられていることを忘れないようにしたいと思います。それだけではありません。19日の「黙想と祈りの夕べ」の通信にありました、23日のボンフェッファ-の言葉、「神はイエス・キリストの誕生において、人類を受け入れたのであって、ただ単に個人を受け入れたのではない」のように、教会はこのような人類を受け入れておられる神のみ業に仕えるコイノニア(交わり)であることを大切にしたいと思います。そうであるとすれば、教会は目に見える活動や教勢のみを自己目的化することは許されません。神のみ業の広がりとその深さを常に第一とし、その神のみ業に参与するコイノニア(交わり)とならなければなりません。
 「黙想と祈りの夕べ」での「分かち合い」の時に、諸兄姉がそれぞれの日常の生活や働きの中で関わっておられる、直接教会との関わりのない方々のことが、それぞれの諸兄姉の思いと共に報告されます。参加者はそのような方々のことを覚えて祈りを共にします。私は、教会にとってこのことの重要さを考えさせられています。良い意味でも悪い意味でも日本のプロテスタント教会の特徴の一つは個人主義にあります。人類などというおおげさなことは言わないまでも、コニュニティ-的な要素が極端に欠けているのです。これまでは個々人としての自立した信仰者が教会では重んじられてきましたが、同時にこれからの教会にはコミュニティ-としての成熟が求められていると思います。そのためには、弱さや欠けや痛みの共有が一つの道のように、私には思われます。事実、「黙想と祈りの夕べ」では、少しずつ自分のかかえる弱さや痛みをこの集いに参加する他者に差し出せるようになってきています。人が自分の弱さや痛みを他者に差し出せるには、他者とのコミュニケイションがなければなりません。「黙想と祈りの夕べ」における「分かち合い」と「祈り」そしてこの集いにつづく「交わりの時」を通して、そのようなコミュニケイションが徐々に醸成されて来ているように思われます。この集いの大切さが、だんだんはっきりして来るように思えて、うれしく思います。