なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想地祈りの夕べ通信復刻版(158)

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信復刻版(158)」を掲載します。

        黙想と祈りの夕べ通信復刻版(158[-1]2002/10/6発行)

 今日から黙想と祈りの夕べは4年目に入ります。当初考えていました2,3年は続けたいという願い

は、一応達成されました。出席者は限られていますが、通信を通してこの営みに参加してくださっている

方も増えつつあります。何よりも私自身にとりまして、日曜日の夜のこの集いは、自分自身を振り返る時

として欠かせないようになっています。

 さて、9月26日の黙想と祈りの集いでの分かち合いでは、最初に私が以下のような発言をしました。そ

の日の午後故Aさんの納骨式があり、式後に家族、親族の方々とお茶の時がありました。私は隣に個人の

義理のお兄さんがいて、教会では今でも日曜学校をしているのですか、と質問されました。そのことから

いろいろと話が展開して、戦時下の教団では、弾圧を受けたホーリネスの教会の牧師がいて、教団はその

ホーリネスの教会を自分たちに弾圧が及ぶのを避けるために、教団から切り捨てたということがありまし

た、という話を私がしました。すると、その方は、人間というものはそういうものではないですか、とい

う主旨のことを言われました。私は、神を信じる教会でもそうなのです、かとあきれられるとばかり思っ

ていたのですが、品減と云うものはそういうものですよ、と言われ、意外な反応に驚きました。そして、

そういう現実を認めざるを得ないと思いました。それだけに、信仰を貫くこと、国家の弾圧下にあっても

仲間を売らない生き様はどうしたら可能なのか、よくよく考えておかなければならないと、改めて思わさ

れました。

 続いて伝道師から、以下の発言がありました。今日は9月最後の日曜日だが、私が当教会の伝道師にな

ってちょうど半年になった。この半年が大変短く感じられた。今日も説教をとりつがせてもらったが、説

教をつくる時に、また教団の方で歴史的資料に触れる時に、自分にまだまだ学ばねばならないことが多く

あることに気づかされた。そのことは僕にとってはうれしいことでもあった。学ぶ意欲を再確認できたか

らである。今日の説教も途中何を言っているのか分からなくなってしまった。説教をつくる過程で、これ

が本当に神のおっしゃっていることなのかと悩みながら、じっくりこれから気づかされたこと通して、考

えていきたい。だから、これからが楽しみである。良い学びの中で半年があっという間に感じられた。

 その後、一人の方からの発言がありました。先週75歳以上の方々が「老いること」を語る礼拝後写真を

撮った。32名の内男性は6、7名だった。女性が圧倒的に多かった。金曜日のオリーブ会(年長者の食事

会)には男性が比較的多く出席した。かつては男性が昼の集会には少なかったが、リタイアーした後の男

性も多いことを知った。私はゲームを頼まれ、風呂敷にさまざまな日用品を入れ、それをみんなに一定の

時間見せて、その品物の名を入れた駄洒落の挨拶文を作ってもらった。ユニークな挨拶文を作る方もい

て、年配の方の頭の柔らかさにびっくりした。いろいろな賜物を持っているお年寄りの方々の働きが教会

で発揮されたらと思う。高齢化ということを消極的、否定的に考えがちだが、もっと積極的、肯定的に考

えて、一年一年それぞれが出来ることをしてゆけば、すばらしい交わりが生まれるのではないだろうか。

 続いてもう一人の方から発言がありました。教会だよりの日曜学校の夏期キャンプの記事を読んで、豊

かな集いだったことを知らされた。夏期キャンプのテーマは「バラバラのいっしょ」、この言葉は考える

と何であろうかと思う。今日の伝道師の説教の最後でも言われていたが、超大国アメリカがイラクをたた

こうとするのはおかしいと思うが、このアメリカの国もある意味では「バラバラのいっしょ」と言える。

一緒への求心力は他者への思いやりではないか。ただ言葉だけの思いやりは曲者で、心の中で思いやりを

持ち、それが行動になっていくことが大切ではないか。現代の企業は生き残りを賭けていて、思いやりは

後回しになり易い。全体として思いやりが薄くなる社会の中で、他者への思いやりを大切にしていきた

い。



     「教会のもつきよめる力」(『ルターによる日々のみことば』より)


 この務めがそしりを招かないために、どんな事にも、人につまずきを与えないようにする。                  
                                  第二コリント6:3

 キリスト者は、神のみ名がそしりをうけないようにするために、だれに対してもつまずきを与えないよ

うに注意しなければなりません。キリスト者であるということはたいへんなことです。すなわち、神にか

たどって造られた新しい人であり、神のまことの似すがたであって、彼のうちに神ご自身を明らかに見る

のです。それゆえ、キリスト者が(キリスト者の名のもとに)なすすべてのことは、善であれ悪であれ、

神のみ名に対するほまれとなり、恥となります。それゆえ、あなたがたが情欲に従い、あなたのうちにあ

る古いアダムに服従するならば、それは神をそしる者に絶好の機会を与え、あなたのゆえに神のみ名がは

ずかしめられる原因をつくりだしていることにほかなりません。

 このように考えるとき、キリスト者は、他の何事に無関心であったとしても、父なる神と救い主イエ

ス・キリストのみ名を守り、ほまれをあらわすことにかけては、絶大の注意を払わなければならないので

す。
                              三位一体後第十九主日の説教