なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信№20

   船越通信№20   2011年8月21日    
 
  814日(日)は午後に神奈川教区社会委員会主催の「平和集会」が紅葉坂教会でありました。私も参加しました。この平和集会は、例年3月に開かれます平和フェスタ(今年は311日の東日本大震災で急遽休会とし、平和フェスタに代えて718日に東日本大地震被災者救援集会を行いました)と共に、社会委員会の大切な集会ですし、特に8月は「ヒロシマ」「長崎」「敗戦」の日を覚えて、二度と再び戦争をしないという決意を新たにする時ですので、私は毎年参加するようにしています。今年の平和集会は、「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」世話人中手聖一さんが講師で、「子どもたちを放射能から守る!~大人たちの責任~」というテーマで行われました。この平和集会のチラシの呼びかけ文は以下の通りです。
 「子どもたちが、ガラスバッジ(簡易線量計)を胸につけ、毎日被曝線量を記録する、福島の今…。世界のどこに、線量計をつけなければならない地域に子どもたちを住まわせ、助けようとしない国があるでしょうか?子どもたちの大切な命と未来のために、原発と福島の「今」に、私たちはどう対応できるでしょうか。福島の人びとと共に日本中の人びとに訴え、政府交渉を続け、献身的な闘いを続けています中手さんと一緒に考えましょう。」
  実際に中手さんのお話を伺って、福島の現実がどれほど厳しいかが伝わってきました。親戚などを頼って福島から避難している自主避難の家族も、1年も2年もというわけにはいかない。ある程度の地域の住民がそのまま、子どもたちも一緒に学校に通える、疎開できる場所を放射能の影響のない他府県に提供してもらい、何れ原発事故が終息したら福島の場所を除染して、疎開した人たちが帰ってこれるようになるまで、国と自治体の政策として進めてもらいたい。そうでなければ、今後放射能被害がどれだけの人に及ぶか、想像を絶するほどだと、いろいろなデーターを示しながら、静かにではありますが、感情を自分の内側でこらえ、目に涙を浮かべながらお話しくださいました。私は、中手さんのお話を聞きながら、この中手さんの訴えに私達がどう応えるのかによって、今後の日本の在り方が決定づけられるのではないかと思わされました。沖縄に米軍基地をおしつけたまま、戦後日本が66年を過ごしてきたように、福島に原発事故の被害をおしつけたまま、今後の日本が進んでいくとすれば、この日本は本当に救いようのない国ということになるでしょう。もうすでに日本がそのような国になり下がっているようにも思えますが、私達は一市民のレベルで繋がり合って、沖縄から米軍基地を撤去させる運動と共に、福島を沖縄にさせないようにしていかなければなりません。そのことは、横須賀の地にある教会として船越教会は、原子力空母の母港となっている横須賀の米軍基地の問題を宣教の課題として担っていくことでもあります。中手さんの講演から、福島・沖縄・横須賀に通底する平和と人権の確立という根本的な人間の課題を改めて強く示されたように思いました。
  815日には秦野西教会の牧師Sさんに案内されて、秦野市のホームにいらっしゃる私が神学校を出て最初に赴任した教会でご一緒だったTさんを、S夫妻と私と連れ合いの4人で訪ねました。Tさんは秦野西教会の礼拝に出席していて、時々秦野西教会の礼拝に出席している私の連れ合いと出会って、一度私にも会いたいということで、今回急遽4人での訪問となった次第です。ホームで用意してくださった昼食を共にしながら、しばらく昔話に花を咲かせました。年を重ねて少し体力は落ちているようですが、Tさんの気力は充実しているように見受けられ、別れ際に、誰に聞かれたのか私の免職問題に触れ、先生は問題を投げかけられたのですから、道が必ず開かことを信じていますと、力強く言って下さいました。
  814日の説教は、マルコによる福音書331-35節から「イエスの家族とは?」と題してメッセージをとりつぎました。まず神学校に行く時、父親の反対があり、勘当同然で父を振り切って入学した自分の体験から、家族の問題を振り返りました。そのような私を既に天上の人となっている妹は、若い時にある面で家族を捨てた私のことを「勝手だ」と言っていました。私は神学校の大学院に入る時に結婚しましたが、その頃には父親とも和解ができていて、父親は結婚式にも出てくれました。一度断ち切った家族との関係を再構築したように自分では思っています。それは、ちょうどイエスとイエスの家族との関係の模倣かもしれません。血縁とか地縁とかの関係が絶対的であれば、それぞれ閉じた家族や地域社会が自らを絶対化にして他との関係を構築するようになるでしょう。イエスは、自分の教えを聞きに来た群衆の一人一人を指して、「わたしの母、わたしの兄弟」とおっしゃいました。イエスを取り押さえに来た肉親の家族は、イエスによって突き放されたように思われたことでしょう。イエスは続けて、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とおっしゃったというのです。このイエスの言葉には、家族という肉親の関係も、故郷の人びとという地縁血縁の関係も、ユダヤ人という民族的関係も、そのような枠の中に人間を当てはめ、それによって人間を規定し、他者との間に境界を引こうとする見方を、イエスが相対化しているところがあります。そのような共同性の中での一人一人という以上に、「わたしの母、わたしの兄弟」としての一人一人を優位に置いているのです。イエスの母、イエスの兄弟姉妹は皆神の子どもです。その事実を根底にして、私達はこの世の様々な人間関係をそこから見直し、その行き過ぎや過ちから自由に相互に生き得るのではないでしょうか。