なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(12)

マルコ福音書による説教(12)
マルコによる福音書3章7ー19
 
  エスは、「医者を必要としているのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(Mc.2:17)と言われまし た。この言葉は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。…」(Mt.11:28)との言葉に通じます。いずれも、イエスがわたいたちの中に来られた目的がはっきりと語られている言葉です。イエスは多くの人によって見捨てられている「病人」や「苦労している者」のために自分は来たというのです。
  私たち中には、病気で悩む人たちやいろいろのことで苦労している人のためにと言って、実はそのような人々を利用して、自分のために儲けている人もいます。また、そのような人々のために精一杯生きている人であっても、自分の行為が偽善になっていはしないかと、恐れを感じないでいられる人が、果たしているでしょうか。イエスのように「わたしが来たのは、病人や罪人のためである」と語るその言葉が、全く偽りを持たないといえる者が本当にいるでしょうか。
  私達が生まれてからこれまで出会った人々との触れ合いを思いおこすならば、そんな人がいるなどということは、思い及ばないことではないでしょうか。父や母はどうでしょうか。子供に対するよき父母は、確かに無償の愛を示すでしょう。もしそのような愛が父や母に欠けていたならば、乳のみ児が育つのは不可能です。時には子供を産んでから、自分達の生活にとって邪魔だからといって、殺してしまうという悲惨な事件が起こりますが、それは本来父であり、母であるべき者が、全くそのような自覚を持ち合わせていない場合に起こる悲劇でありましょう。乳のみ児は自分で生きる力を持っていません。それ故、彼らは無償の愛を求めます。そして、よき父母はその乳のみ児の必要に答えて、彼らに無償の愛を注ぎ、喜んで彼らを養育するのです。しかし、自分の子供に対する本能的な愛情や父・母としての義務と責任感からではなく、全く自発的に、誰の子供であっても、自分の子供と同じように愛を注ぐ父・母がいるでしょうか。親子の関係においては、確かによき父・母は、神の愛の証し人であっても、隣人である他者との関係においても同様であるとは言い難いのが私たちの現実のすがたではないでしょうか。
  教師、先輩、同僚、知人、友人はどうでしょうか。一体、今まで私達が接した人の中に、そのような人(イエスのような)がひとりでもいたでしょうか。そして、この私自身はどうでしょうか。「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(Phil2:4)という勧めが向けられない程に 他人のことを考えて日々生きている人など 、何処を捜してもいないではないでしょうか。まして、「病人」や「罪人」「あらゆる重荷を背負っている者」と進んで友となり、「彼は私達のわずらいを身に受け、私達の病を負うた」(Mt.8:17Is.53:  )といわれる程に、他者の病苦を自ら負いたもう方が、本当にいるでしょうか。
  一人の病人のために、10年、20年、或はその一生のほとんどを看病に過ごす人がいるとします。そのような人は、当然自分のために、自分の楽しみのために使う時間は、極めて少なく、他者のために多くの時間を取られることになります。私達はしばしば、そのような人は不幸であるというのを聞いたり、また自分が言ったりすることがあるかもしれません。本当にそうなのでしょうか。以前ある集会で一人の女性が自分の一生は結婚してからはほとんど看病であります、とおっしゃいました。
  では一体、人間にとって幸福であるとはどんなことなのでしょうか。健康で、経済的にも恵まれ、快楽をほしいままにできる人が幸福なのでしょうか。そのような幸福論によれば、『自分』がすべてであって、『他者』は、自分の幸福の追求の道具であり、手段と考えられます。自分のための道具や手段になりえない「病人」やいろいろな「重荷を負って苦しんでいる人」に出会った場合、あのレビ人や祭司のように傷つき倒れている旅人の傍らを通り過ぎていくことが賢明なのであって、そのような人とまともに向かい合って生きることを避けた方がよいということになります。人に迷惑をかけないということが、人から迷惑をかけられたくないということであれば、結局人間は一人であることが最善ということになります。しかし、そんなことができるはずがありません。一人の人間が誕生した時から、その人間は多くの人の支えの中で成長を許されているのであって、人と人との関係を断って、自分一人で生きていくということは、結局、人から助けてもらって、自分から人には与えないということになるからです。自分だけの幸福追求は、様々な人と人との関係の中で、多くの人の支えによって生きている私達にとって、他者を喰って自分が生きることに必然的になっていくのです。その場合、喰うに値しない者は当然見捨てられます。社会保障もなく、医者にも見捨てられた「病人」は、そのような見捨てられた人の代表でしょう。
  先程のマルコによる福音書テキストには、「病気に悩む人たちは皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せた」とあります。ここで「病気」と訳されている語は、「鞭」とも訳されます。また(神の)罰、たたり、とも訳されます。つまり、聖書の時代の人々は、そのような見地から見た肉体的、精神的苦痛を病気としてとらえていたのです。私達の通常の感覚からすれば、そうはとらないでしょう。科学的な見方によれば、病気には原因があり、それを究明し、手術したり、薬品によって治療がなされます。病気を〈罰〉とか〈たたり〉とかいうことは迷信であって、科学的な認識をもつ以前の人間の考えということになるでしょう。確かに罰とかたたりという見方には、病気による苦痛に耐えている人間を、更に、暗く否定的なところに追込んでいく感があって恐ろしい気がします。しかし、それまでは何でも自分でやり、自分の力で生きてきたと思い込んでいた人間が、病気にかかることにより、どうしても他者からの助けを必要とする状況に追込まれます。そのように、おごり高ぶっている者が、鞭打たれ、へりくだらされ、他者へと己を開かずに生きてゆけない者とされるために、病気があるとすれば、それを迷信にすぎないといって片付けて良いものでしょうか。実際病気の人には色々な人がいます。或は医師、看護婦から治療や介添えを受けるのが当然だと言わんばかりの人もいるでしょう。社会的に重要な立場にある人が多くの人から見舞いを受けても、そのような立場でなくなったとき、余りにも自分勝手な人のところには誰も訪ねてくることもないであろう。逆に喜んで人から世話される人、自分を無心に他者に明け渡す人、そのことを喜び感謝できる人は、その人を支える人も慰め、励まされて、共に生きる喜びを両者が味わうことになるのであります。すでに死期を間近に控えている人が、わずかの命を非常に美しく燃焼させて死ぬこともあるでしょう。ただただ自分が癒されることを強引に願うのではなく、自分の苦悩のただ中で、イエスと交わり、身近な者に向かって自分の一切を委ね、そのイエス(神)、自分、他者の豊かな交わりの中で死んでいくとき、そこで人間が人間であることの栄光が鮮明に表れるのではないでしょうか。
  何故イエスが、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人をん招くためである」と言ったのでしょうか。その秘密はここに隠されているのではないでしょうか。イエスは偽善者のごとく、他の弱みにつけ込んで施しをし、自分の義を人に見せる人間ではありません。イエスは他者を最も強く求めている人と共に生きるために来たのです。「病者」の中で、他者の支えを切実に求めている人間、罪を犯して赦しを切実に求めている人間、そのような者の友となって、交わることにより、人が神と共に生きることによって、神に栄光を帰す道を、われわれに与えておられるのではないでしょうか。イエスは己の一切を与え給う方です。そのようなイエスを受け入れて、イエスとの交わりに立つとき、「受けるよりは与える方が幸いである」という人間につくり変えられていくのではないでしょうか。
  「病人」や「罪人」を招くためにきたといわれる、そのイエスが、また、そのような他者の支え、助けを切実に求めている人々の中で、「これと思う人々を呼び寄せ」られました。「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」であるといわれます(3:1415)。
  弟子達がそこにいることによって、イエスご自身がそこにいたもう。そのような者として、イエスは弟子達を立て給うのです。そして、彼らはイエスの活動(宣教と悪霊追放)を反復するのです。それが教会です。十二人を立てたということは、イスラエルの十二部族と関連させ、新しい、真のイスラエルとして、みこころにかなった者達を呼び寄せたということでしょう。「みこころにかなった者達」とは、イエスが望む人達です。私達の側に力があるから、何かイエスの弟子になるにふさわしい資質があるからということではありません。イエスが望んでおられるということ、イエスが私達を呼んでおられるということ、ただそのことに信仰をもって答えていくことだけが、私達に求められていることなのであります。自分がイエスの弟子にふさわしいとか、ふさわしくないとか、その力があるとかないとか、そういう思いは一切捨て去るべきです。私達人間の側の条件がイエスの召集を可能にするということではありません。イエスの召集が、わたしたちのかけや汚れにも拘らず、私達を弟子とするのです。私達を招く方が、それにふさわしい者達として私達を立てないとでもいうのでしょうか。ちなみに14節で、「十二人を任命された」と訳されている「任命された」という語は、「造り出す」「引き起こす」「創造する」という語です。無から有を創造する神の創造、奇跡を引き起こす、そのような行為を示す言葉が使われているのです。
  私達は、神と共に生きる人間として選ばれたイスラエルが、神と共にある人間の生活を歴史の中で形成する使命を与えられていながら、多くの過ちを犯し、失敗を重ねていることを、旧約聖書を通して知ることが出来ます。福音書を読むとき、イエスの弟子達も、また同様の過ちと失敗を犯して、イエスを裏切ることをしばしば行っているのです。教会の歴史も、私達自身も全く同じでしょう。そのような人間の暗さを教会(イエスの弟子達)は常にかかえていますし、今後も抱えていくでしょう。12弟子の中のイスカリオテのユダの存在は、教会もまた過渡的であることを示すものです。その意味で、現実の教会は神聖ではないし、神聖であろうと欲する必要もありません。破れを持った者の集いであり、過ちと失敗を繰り返さざるを得ない者たちです。しかし、私達の主であるイエスは、そのような私達を、神と共に生きる人間として常に新しく創り出してゆくのです。そのような信仰によって、私達はイエスの召集に答えられるし、その群れの一員として留まり続けることが可能とされているのです。
  「病気に悩む人たち」のために来たイエスが私達を招くその招きにしたがって生きる者の道を探究していきたいと思います。