なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(26)

 今日掲載します「黙想と祈りの夕べ通信」で書きました私たちと神との関係と私たちと他者である隣人との関係の問題は、私がずっと課題としてきたテーマです。みなさんも是非考えてみてください。今日は、私はなか伝道所で行われます「第5回ラ・キ・ネット(「ラテンアメリカキリスト教」ネットの略)聖書研修会」で寿のことを話すことになっていますので、午後には鶴巻をでます。22日、23日はラ・キ・ネット集会に参加する予定です。日曜日は船越教会です。
 
 黙想と祈りの夕べ
   (通信 26 2000・ 3・26発行)
 
 私は、青年時代にベトナム戦争やヤスクニ問題、「底辺」生活者との関わりを通して、教会の語る信仰の言葉のどこかに誤魔化しがひそんでいるいるのではないかと強く感じたことがありました。贖罪を語り、救いが語られるのですが、それは現実の問題からの逃避ではないか、と思えて仕方ありませんでした。そのことを名古屋の教会時代の友人たちと議論する中で、教えられたことがあります。「御器所教会創立80周年記念誌」に私が書きました「福音における交わりの回復」という文章に、その点が触れてありますので、抜き書きしてみたいと思います。
 60年代後半から70年代はじめにかけての広範な社会の変動は教会にも影響を及ぼしました。社会から教会が問われた時です。私はそのことをこのように書きました。「現代社会における人間の様々な問題、その根底にある人間関係の破れ、人間を物や道具のようにしか見ようとしない社会にあって、福音がどのような意味で私達の交わりの回復を示唆しているか、という問題が、まさに私達の教会にとっての真剣な課題になってきたのです」と。そしてそのことに気づいた教会は、それにどう関わったかと言いますと、「このような問題に対して、この時期は絶対者なる神との関係をそのままの形で保持しつつ、隣人との関係へそれをひろげてゆく方向で考えられたように思われ」るのです。けれども、「このような方向の問題性が、具体的な問題を担う中で徐々に明らかになっ」てきました。「それは、古くから培われた会員の立場(絶対者なる神との関係が中心)と、それでは十分他者や社会の問題が捉えられないという問題意識を持った人の立場とが激しくぶつかり合うという形で」御器所教会の場合には現われました。「対他関係の問題、つまり具体的隣人との一対一関係にしろ、社会と私という関係にしろ、そのような私達の交わりの問題が問われそれを考えようとすると、絶対者なる神との関係を衝立てのようにして相互に向かい合うことを阻み、自分の立場を絶対化するという私達の問題が明らかになってきました。そのようにして、絶対者なる神との関係を基礎にして、それを媒介として他者との関係を考えようとしてきたそれまでの信仰のあり方そのものが、聖書によって示されているイエスの出来事において、イエスが他者である隣人にとった態度に照らして考え直さなければならないという風になってきたのではないか」と思うと書きました。
 以上のことを思い出しましたのは、先週の説教でヨハネ福音書4:1-42において「飢えと渇き」という現実的な人間の問題を「永遠の命に至る生ける水」や「神の働きという食物」という神との間の霊的なリアリティ-の問題と結びつけているヨハネ福音書のイエスのことをお話したからです。世にある人間がこの世の様々な問題に直面しつつ、神を信じて世を超えた神との関係を大切にしながらどう生きていくのかという課題です。これからも模索を続けながら、この課題に応えて生きたいと願います。
 前回の「黙想と祈りの夕べ」の「分かち合い」では、私が、2回だけ私たちの教会の礼拝に出席し、栃木の故郷に帰った若い女性が、自分には「心やすまる時」がないと葉書に書いて来たこと。送った「通信」喜んでくれていること。この姉妹のことを覚えて祈りに加えて欲しいという話をしました。また、一人の姉妹が、教会員のご家庭の和やかな姿に接して、自分の子の家庭もいつか神に導かれるようにと、その思いを話されました。