なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(25)

 台風15号の影響が各地に出ています。今秦野の鶴巻ですが、こちらも風が強くなっています。マンションのベランダに作ったゴーヤやひょうたんの蔓をはわせた緑のカーテンが、強風でベランダから落ちそうになりましたので、無理やりベランダの外に出ないようにつぶしてしまいました。みなさんのところは大丈夫ですか。
 昨日は、夕方から弁護士事務所で弁護士同士で私の裁判の訴状の打ち合わせがありましたので、私も出席させていただきました。その前に船越教会により、教会にある全部の雨戸を閉めて、台風対策をしてきました。
 さて、今日も「黙想と祈りの夕べ通信(25)(復刻版?)を掲載します。
  
  黙想と祈りの夕べ
   (通信 25 2000・ 3・19発行)
 
 先週の主日礼拝の説教において取り上げました、ヨハネ福音書4章1-26節の「生ける水」をめぐるイエスサマリアの女の出会いにおける、「水を飲ませてください」というイエスの言葉について書いてみたいと思います。関田寛雄さんは、「『水を飲ませてください』と言った時のイエス疲労と汚れのためにこの女からさえ蔑まれる姿であろう」と言っています。そして、「蔑視と抑圧のために石のような心になってしまった者の、その心をとかし、人間をとりもどさせるのは、悲惨な、余りにも悲惨な隣人の苦しみからの訴えである。硬直した絶望の壁の中に生きている者の扉がゆるめられ、壁が内側から開かれ始めるのは、より深く苦しんだ者の、乞い求めに会う時からである」と。どうでしょうか。ちょっと極端ではないでしょうか。私は最初そう思いました。けれども、苦しむ他者の乞い求めによって、頑なな人の心がゆるむこと。苦しむ他者の訴え・求めに応える者へと促されることによって、頑なな人が人間性を取り戻すということはあり得るのではないかと思いました。
 そのように思いめぐらしていましたら、川島重成さんの「よきサマリア人の譬え」の解釈が浮かんできました。川島さんは、「サマリア人を『よきサマリア人』たらしめたのは、実は表面的には何もできない、半殺しにされた旅人」だと言うのです。そして「傷ついた無力の人から豊かに与えられる」ものがあると。それは、「いわゆる強い人、立派な人にはない」「全く弱い立場にある人が、表面上何もできない状態に置かれたまま」に放つ「存在の香り」なのだというのです。川島さんは、よきサマリア人の譬えにでてくる無力な旅人に、この譬えを語るイエスの姿を重ね合わせて、この譬えを聞いた人もいたのではないでしょうか、と言われます。
 私は、上記の関田さん、川島さんの示唆に何か光のようなものを感じました。そして、関田さんの指摘を、いろいろ思いめぐらしていくうちに極端という風には感じなくなりました。「水を飲ませてください」と語るイエスは、あの十字架上のイエスのように思えてきました。そしてそれは同時に、さまざまな人間の叫び・求めにも思えてきました。そのような方々の放つ「存在の香り」を大切にしていかなければと思います。
 前回の「黙想と祈りの夕べ」の「分かち合い」では、一人の姉妹から、うれしい報告がありました。日曜学校のリ-ダ-をしている姉妹が、中高科の礼拝説教で、自分と教会との出会いについて話されたこと。彼女は高齢者の介護の仕事をしていて、そこに来るお年寄りの中に、痴呆の状態でも教会のことを想い、賛美歌を歌う方がいて、何がこれほどまでにお年寄りを捉えるのか興味と関心をもっていたとき、2年前たまたま当教会の礼拝に導かれ、それから続けて教会に来ているという、お話を子供たちの前でしたそうです。またその中高科の礼拝で献金の祈りをした中学生の男子が地下鉄事故でなくなった人のことを自分の言葉で祈ったこと。小さい頃、大人の礼拝の幼児祝福の時に、「-メン-メンヒヤソ-メンン」と言ったことのある中学生の男子が先日のY先生の送別会で、先生の髪に鋏を入れ、一言「頑張ってください」と語ったことにも触れ、姉妹は一人一人の上に神様の導きがあることを実感したと話しました。また、もう一人の兄弟は、自分がコンピュ-タ-の技術指導で伺った精神科のクリニックの報告に加えて、私たちの教会も心の病をもつ人をありのままに受け容れられるようになりたいと話しました。