なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(16)

マルコ福音書による説教(16)    
           マルコによる福音書4:21-34
               
  最近暴力団との関係があるということで島田紳助が司会を降ろされた「お宝探偵団」というテレビ番組があります。鑑定を依頼する骨董の評価を楽しむ番組です。思わぬ値がついたり、ガラクタだったりという、その落差が面白いのです。骨董には、それを実際に作った人々のこと、彼らが生きた時代や社会という背景があります。しかし、それらはすべて過去のすでに消滅している歴史であります。目の前にある作品は、それを作った人々の文化や生活をしのぶものであっても、我々がそれを見るときには、骨董としてそれを見ているのです。  人間は「時」の中を生きているわけですが、その時は過ぎ去ってしまうもの、どんなに優れた文化であても、骨董になってしまうものなのかという思いことがあります。その作品を見ながら、この世の生はそういう「時」に支配されているということを思わされます。
  ギリシャ語では一般的な時間を「クロノス」といいます。そのクロノスをギリシャ人は、体は人間の体つきをしていて、頭はけだものである化け物の形で考えました。このクロノスは毎日子供を産むのですが、その産んだ子供をみんな自分で食い殺してしまうのです。時というものは、毎日毎日新しい時が出てくるけれども、しかしその一つ一つがなくなっていってしまう、死んでしまうものとして把えたのです。そういう時の中を我々は生きているのだと。
  そういう理解から致しますと、聖書に告げられています「神の国」は、随分ちがうもののように思われます。今日のマルコによる福音書4:21-29、30-32は、明らかに「神の国」についての譬えの形で述べられています。「神の国」はマタイによる福音書では「天国」と言われていますが、「天国」というと、死んだ人が行くところで、彼岸的な世界、何となくバラ色なユ-トピアというように、我々日本人には考えられるかも知れません。死者の国、そして死んだら天国に行けるように、よく生きなければならないというようにです。しかし、聖書の「神の国」は「神の支配」です。詩篇145篇11節以下を、関根正雄さんの訳で読んでみますと、
  「あなたのみ国の栄えを彼らはのべ、/大いなる力を彼らは語る。/人の子らにあなたの大いなる力を知らしめ、/み国の栄えある輝きを知らしめるために。/あなたのみ国はとこしえの国、/あなたの支配は代代に続く」。
  この詩篇では、「み国」、「大いなる力」、「支配」が並行関係の形で述べられています。マルコによる福音書4:26以下の譬えでは、そのような神の支配としての神の国が、人の知らない間に、ちょうど地に蒔かれた種が「夜昼寝起きしている間に、芽を出し育って行き、穂が出、種の中に豊かな実が出来る。そうなると刈り入れが行われる」ように、私たちの中にすでに到来しているというのです。
  「一粒のからし種の譬えの方も、小さなからし種が地に蒔かれると、私たちの知らないうちに、私たちが何もしないにもかかわらず、成長して、大きな木になって、その陰に空の鳥が宿る程になる」、そのように神の国はすでに私たちの中にやってきているというのです。
  4:21以下は、「あかり」は「升の下や寝台の下に置くためにではなく」、「燭台の上に置いて」部屋を明るくするのだ。「他者との出会いの場所に置かれ続けなければならない」(大貫)。「あかり」がすべてを照らすように神の国が来るということは、「神の国」がこの世の闇に光を照らすように到来し、この世の時を審くという風に受け取られます。また、隠れているものが必ずあらわれるということは、「神の国」は隠されたままではいけないことを示唆しています。
  24・25節の「秤」の譬え。ここでもマルコは、福音の宣教と関係させて、宣教の言葉が示す事柄こそが決定的に重要であるといいます。「聞く者がそれを理解する度合いが『量る』(24b)の意味であり、理解した者がそれを保持することが『持っている者』(25a)」の意味でしょう。これはいずれも聞く者あるいは聞いた者の現在に関係しています。しかし、その現在に未来がかかっています。宣教の言葉が指し示す事柄を理解し、それを困難な状況の中でも保持する者は、やがてその度合いに応じて、否、それを越えてさらに豊かに報いを『増し加えられるであろう』と。反対に、理解せず、保持しない者は、やがて『持っている物』、すなわち、『富』をはじめとするさまざまな欲望の対象とひいては自分の命さえ『取り上げられることになるであろう』。マルコが考えているこの未来を、狭く『神の国』が実現する終末の時に限定する必要はありません。マルコの終末論は独特の2段階を示しており、最終的な終末の到来以前の『今この時代』の内にも、思いがけないほど(100倍!)の報いがあるという考え方です。
  24b-25節の対句に見られる現在と未来のこのような対応のさせ方は、8章35節「自分の命を救おうと欲する者はそれを失い、わたしと福音のためにそれを失う者は、それを救うであろう』、および8章38節『誰であれ邪悪で罪深いこの時代に私の言葉を恥じるならば、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう』の場合と共通しています。それは偶然ではありません。この2つの文言を含めて、8章34節-9章1節の段落は、マルコの教会の宣教の状況とその中での信従の問題を終末論との関連で論じる点で、マルコ福音書4章のこの文脈と同質と言えるでしょう。しかし、このような神の支配としての神の国を、何か漠然と思い浮かべるのではなく、また、ただ単に将来における出来事としてではなく、将来的であると共に現在のこととして、目には見えず、手には触れることは出来ないが、確かに感得できるものとして、われわれのただ中にある現在の事実であると、聖書は語っています。
  ルカによる福音書17:20以下に、「神の国はいつ来るかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は、見られるかたちで来るものではない。また、〈見よ、ここにある〉、〈あそこにある〉などとも言えない。神の国は実にあなたがたのただ中にあるのだ」と言われています。「福音書の『神の国』はキリストにおける神の意志遂行とその展開にほかな」りません(熊野)。 神の意志遂行とその展開としての神の国が、イエスの出来事において人々の中に広がった波紋のように、わたしたちの営みの中で、しかも私達の思惑や実績に係わりなく、その最後の目標に向かって自己成長していくのだと。それが種の譬えが言わんとしていることです。
  そうであるとするならば、私達がクロノスという時間にか、神の国カイロスという時間にか、自らの心をどこに開いていくかが問われていると言えるでしょう。戦時下教会のことを考えさせられます。教会を守るという発想で、戦うべきところも、時代の流れに飲み込まれ、迎合し、補完してしまったのではないでしょうか。戦時下の教会は、自分を神にでもイエスにでもなく、国家に開いて教会を守ろうとしましたが、そういう形では教会を守ることはできませんでした。このマルコ福音書の譬えに従えば、戦時下の教会は「隠れてはいるけれども、必ず明らかになる」神の国、「キリストにおける神の意志遂行とその展開」に蓋をしてしまったということでしょう。
  1995年の戦後50年を記念して、明治学院では戦時下の学院の在り方を自己検証し、『心に刻む』という小冊子を出しました。その中に戦時下におけるキリスト者の相反する態度が記されています。「大君(天皇)の御戦を戦うて邁進する。そこに我等の信じる神への奉仕の道があり」は戦時下明治学院学院長の訓話の一節です。一方「俺は人間とくに現代の日本人の人間性に絶望を感じている。おそらく今の人間ほど神から遠くかけはなれた時代はないと思う」(明治学院生・長谷川信)(共に『心に刻む』から)。私達は今神の国の時間をどう生きるのでしょうか。
  宣教とは、教会を大きくし、教会を守ることではなく、イエスの播かれた種、生かされて生きる恵みの生、命をいとおしむ生を他者と共に生き抜くことではないでしょうか。「驚嘆すべき土の生命力が、まいた者も知らぬまに、種を発芽させ、順を追って成長させて、豊かな実りと収穫に至らせるように、宣教のわざも神自らの絶対的な働きによって成長し、豊かな実り、すなわち『神の国』に至るに違いない」ことを信じて。