橋爪大三郎と大澤真幸の二人で、主に大澤が橋爪に質問する形で書かれた『ふしぎなキリスト教』という本が話題になっているようです。最近私も読んでみましたが、橋爪らしい大変クリヤーな社会学的なキリスト教理解になっています。最近は余り追っていませんが、私は橋爪大三郎の本は大体読んで来ました。社会学者の中では、私は信頼できる学者のように思っています。この本は近代社会の理解にはキリスト教の理解が不可欠で、多くの日本人はキリスト教を知らないので、近代社会そのものも正しく理解できていないのではないかという問題意識から作られたようです。この本の「あとがき」に橋爪はこのように書いています。
「なぜ、日本人は、キリスト教を知らないといけないのか。キリスト教を理解すると、どういうことがあるのか。それは、こんな感じだ。『昔むかし、あるところに、七人家族が暮らしていました。「戦後日本」と、表札が出ていました。/ 家族は両親と、五人のきょうだい。「日本国憲法」「民主主義」「市場経済」「科学技術」「文化芸術」という名の、いい子たちでした。/ でもある日、五人とも、養子だったことがわかりました。「キリスト教」という、よその家から貰われて来たのです。/ そうか、どうりで。ときどき、自分でもおかしいなと思うことがあったんだ。そこできょうだいは相談して、「キリスト教」家を訪問することにしました。本当の親に会って、自分たちがどうやって生まれたのか、育てられたのか、教えてもらおう。忘れてしまった自分たちのルーツがわかった、もっとしっかりできるような気がする・・・・。』
果たしてキリスト教の養子である五人きょうだいである近代社会の基盤そのものが「いい子」なのかという問いもあるでしょう。特に環境問題に関わっている人は批判的なのではないでしょうか。戻れるものなら、近代社会以前の中世の世界に、あるいは古代の世界に、さらにはもっともっと原始的な生活をしていたころのネイティブの世界にという、願わぬ夢を追い続けている人もいるかも知れません。
五人きょうだいを「いい子」と思うか「わるい子」と思うかはともかく、現実は近代・現代社会に生きている私達ですから、近代社会について良く知っておくことは必要でしょう。その意味で、この本は面白い本です。
さて、今日は「父北村雨垂とその作品(30)」を掲載します。
父北村雨垂とその作品(30)
吽と啼く 白牛は 露路をあけぼのに
目の底で泣(啼)いたか ひきがえる
歌え ラララ 歩けラララと れんげそう
婦の指を 豚は 眞珠を流し目に
婦 (おんな)よ 指の眞珠を豚は流し目に
突げきの構えて 葦も冬とおわる
突げきに構えて北風を葦の追う
(葦と北風も終る)
目を伏せて 泣かぬ 乳房の(も)いちじくや
(以下1977年(昭和52年)2月より)
泫と描く 虚空に走る指の先き
潮の底から ひらめが にらむ月光や
菜の花や 三浦の海を鏡とも
遺書と在り 一個の父母をもてあそび
父 恋し 母 恋しとや ほととぎす
無限の億の分母の二0世紀の神話
対決の 頬 ( ほほ ) ふくらめて檻の猿
ぼたん散って みだらに 朝を耀 ( かがや )ける
無花果 (いちじく)と 葡萄は いまも唖者である(いる)
平和とは 何 神殿はハトの ふん
片えくぼ 男の校歌 口ずさむ
月をにらんで 比目魚は潮とふるさと
まぶたの壁にゆれるはないし
はかいしの 三日三ばんを雨ぞ降る
祖国孵る 夢に還らぬ夢を抱く
髭のある 稲子を 討 ( う )てと みづほの民
対決の頬 ( ほほ ) ふくらめて おりの猿