なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(24)

船越通信№24   2011年9月25日     
 
  917日(土)に紅葉坂教会の青年3人が夕方から船越教会に来て、妻と私と 5人で夕食を囲みながらそれぞれの近況報告を話し、夜遅くまで楽しいひと時を持ちました。17日は私にとってはまだ夏期休暇の最後の日でしたが、青年たちの都合と合うのが17日でしたので、18日の説教は前もって準備し、17日は土曜日でしたが、夜遅くまで青年たちと付き合いました。3人のうち2人はそのまま教会に泊って、翌日の日曜日の礼拝に出席しました。泊ったうちの1人は、紅葉坂教会のオルガニストでしたので、18日の日曜日の奏楽を急遽お願いしましたら、快く引き受けてくれました。その日の礼拝の中でKさんの転入会式が行われました。18日は礼拝に来れない人が多く、転入会式があるのに人数が少ないのではと心配しましたが、紅葉坂教会の青年2人も加わって、12名の礼拝出席者でした。礼拝後みんなでお菓子と果物をいただきながら歓談して別れました。
  この日私は東京で私を支援する会がありましたので、18:00に早稲田教会に行き、鶴巻に着いたのが22:30頃になってしましまた。支援する会では、私の裁判が始まったら、特に傍聴や報告集会を具体的にどうしたらいいかということを含めて、私の裁判支援について話し合ってくれました。東京からも事務局に入ってくれる人が決まり、徐々に準備の体制が整いつつあります。916日には大阪の方で、大阪の支援会から私の裁判の世話人を引き受けてくださる方と事務局の方が集まって、今後のことを話し合って下さいました。神奈川は25日に集まることになっていますので、今後は提訴までに東京、大阪、神奈川以外の地域の中で世話人になって下さる人をお願いして、全国的に支援の輪を広げていくようにしていきたいと思っています。
  920日は台風15号が関東にも近づいていましたので、船越教会に寄り、雨戸を閉めて台風への備えをしました。
  922日は16:00からなか伝道所で集会があり、そこで私は寿のことを話すことになっていましたので、その集会に参加しました。夜は太田道子さんの講演があるというので、その講演をお聞きして22日の22:00頃船越教会にきました。中に入って部屋の点検をしましたが、台風の被害はありませんでした。23日の朝になって庭も見回りましたが、庭も被害らしきものは見当たりませんでした。
・太田道子さんについては、以前佐藤研さんとの対談のような『聖書と現代社会』  を読んで、非常に刺激的な方に感じましたので、彼女の著書『ことばの光』1、  2を購入して読んでいました。何が刺激的かと申しますと、イエスをオリエントの 世界から社会学的に理解しようとしていることと、教会的な枠組みとしての神学や 教会生活から聖書を読むのではなく、現代人としてこの現代社会に生きている自分 が一人の人間としてこの社会をどう生きるかという自分の生き方から出てくる問い を、直接イエスにぶつけて、イエスから生きるということが信仰によって生きるこ とではないかという信仰理解をしていることです。ですから、太田道子さんは、伝 統的な教会の贖罪論を相対化します。この日のお話の中でも、キリスト教の罪(原 罪)に触れ、その人間の罪を背負ってイエスは十字架にかかり死んでくださったこ とによって、私達の罪を贖ってくださった。そのイエスが復活して私達の主となっ たのだから、信仰者はイエスを主とし、キリストを頭とするキリストの体の肢体な のだというというのが伝統的な教会の信仰理解です。太田道子さんは、そもそもイ エスは主であるという「主」(キュリオス)は、王などの世俗的な権力者を表す言 葉で、それをイエスに当てはめることがおかしいとおっしゃいます。使徒信条にし ても誕生から直接死に行って「…処女マリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもと に十字架につけられ、死んで葬られ、…」と、生まれてすぐ死んじゃうわけで、そ の間のイエスの生涯はどうなっているのかとおっしゃいます。このような発言に  は、教会的な枠組みからではイエスをありのままに捉えることはできないという思 いがあるのでしょう。イエスの運動は、ガリラヤというパレスチナの大変豊かな穀 倉地帯に、周辺のエジプトやアッシリアバビロニアのような大国が常に干渉し、 当時の古代社会の矛盾が集約されているような場所で、ローマ帝国支配下で本当 に苦しんでいたユダヤの民衆を前にして、洗者ヨハネの運動に続いてイエスが立ち 上がって始まった、新しい社会を創造しようとした運動ではないかというのです。 イエスは小さい時からユダヤ教の社会の中で育ち、相当知的にも優れた人物で、洗 者ヨハネのようなある種の社会変革をめざす運動が頻発していた当時のガリラヤに おいて、ある時期に自分も立ち上がっていったのがイエス運動ではないかというの です。現代社会に生きる私達が今日的な文脈の中でイエス運動を継承していくこと が、イエスを信じるとことではないかと、太田道子さんは言っているように思いま す。自分に引き付けた理解かもしれませんが、太田道子さんの話を心躍る思いで聞 くことができました。