なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(541)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(541)復刻版を掲載します。2010年2月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(541[Ⅺ-19]2010・2・7発行)復刻版


 「イデオロギー」という言葉の定義はなかなか難しいのですが、私は橋爪大三郎が環境問題について

書いている『「炭素会計」入門』の中でイデオロギーについてしている定義が、自分としては納得でき

るものだと思っています。橋爪はこう言っています。「イデオロギーとはドクマ、すなわち『正しいか

どうか論証が必要なことがらを、無条件に正しいと信じさせること』である。たとえば、三位一体説。

たとえば、労働価値説。キリスト教マルクス主義は、これが正しいかどうか、そもそも疑いをはさむ

ことを許さない。人びとに同じことを考えさせ、団結をつくり出すのがイデオロギーの働きだ」(上記

同書62頁)と。私は沖縄の辺野古基地問題にしても、寿の日雇い労働者や野宿者の問題にしても、現

在の日本の社会に生きるキリスト者としての「生き方、態度の問題」として考えていますし、またその

ように言っています。無理やりみなさんにドグマを信じさせているわけではありません。平和の実現の

ためには、日本の米軍基地の問題は避けて通れません。沖縄に日本の米軍基地の多くを負担させ、今も

世界中の基地でも普天間基地ほど危険な基地はないと言われている普天間基地返還の条件として、旧自

民党政権が新しい基地を沖縄の辺野古に作る日米合意をして、また新たに沖縄に新しい基地を作って負

担をかけることは、どう考えてもおかしなことです。キリスト者の生き方、態度の問題として、私は辺

野古の新基地建設反対を表明し、ささやかですがその反対運動に参加しています。寿にも同じような理

由でささやかながら関わっています。辺野古のことも寿のことも語る場合は、私は自分の生き方、態度

の問題として語っています。みなさんに強要するつもりはありません。それぞれ自分の生き方、態度の

問題として、平和問題に、障がい者問題に、差別問題に、子どもや高齢者の問題に、或いは環境問題に

関わっておられる方がいらっしゃると思います。私はすべての人が辺野古や寿の問題に関わるべきだと

は思っていません。ただできればその現実に目をそむけないで直視して欲しいとは思っていますが。何

故なら、私たちキリスト者は「現実と聖書の往還」の中で生きていくからです。このことは私の著書

『自立と共生の場としての教会』でも繰り返して書いていますので参照ください。

 こういう人間の生き方、態度の問題に対して、それをひとくくりにしてあるレッテルで切り捨てる言

い方をする場合があります。先日の「牧師招聘問題」の懇談会のテープを聞かせていただきました。そ

の中でも「イデオロギー」という言葉や「赤」という言葉が使われていました。それは現代の日本社会

に生きるキリスト者としての生き方、態度についての私や紅葉坂教会の姿勢に向けられて語られたもの

のように思われます。

 さて橋爪の定義によれば、イデオロギーは「正しいかどうか論証が必要なことがらを、無条件に正し

いと信じさせること」であります。私は1995年に紅葉坂教会牧師に就任して、その直後の4月に行われ

た教会総会で挨拶を求められてしました。その挨拶で、その時の総会の議案書にありました当時の宣教

委員長のOさんの文章を引用しました。それは「・・・言うまでもなく、主の恵に応え、信仰を深め、信仰

を継承していくことが第一義であるが、同時に今日的な問題にも敏感でなければならない。・・・恵に生か

されることは感謝であるが、それがともすると、強者の奢りになり、差別体質が作られていくこともあ

り得る」という部分です。これを受けて私は、「なぜ信仰を深め、信仰を継承していくことが、強者の

奢りとなり、差別体質が作られていくことになるのでしょうか。私は、そのような信仰の問題は、神関

係を第一義とし、隣人である他者との関係を第二義として、段階的に位置付けるとことにあると見てい

ます」と言いました。この神関係を第一義に隣人である他者関係は第二義にという信仰では、神と自分

という関係における神の救済・慰めが福音であると考えられます。そのような福音理解が正しい、絶対

だという考え方は、実はイデオロギーとしての機能を果たしていくことになります。イデオロギーとは、

橋爪に言わせれば、「正しいかどうか論証が必要なことがらを、無条件に正しいと信じさせること」だ

からです。自分たちの立場、福音理解・信仰理解を一方的に正しいとして、異なる考え方をする者を法

によって裁き排除することに繋がります。相手の考え方をイデオロギーとか赤だとかと批判するのでは

なく、自分はこう考えるがどうだろうかと、相互批判的にお互いの考えを出し合い、自己相対化しなが

ら対話を通して新しい発見や視点を学び合いたいと思います。そのことを通してお互いにより聖書の真

理に肉薄していく仲間でありたいと思います。  


         「優しさを身にまとう」      2月7日


 時々、私たちは優しい人に出会います。優しさは力強く荒っぽいことが評価される社会では、みつけ

ることの難しい美点です。私たちは、物事を成し遂げるように、しかも速やかに成し遂げるように促さ

れています、たとえその過程で人々が傷つこうとも。成功や業績、生産性は重要です。しかしその代価

は高く、そのような環境には、優しさの余地がありません。

 「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さな」い人は優しい(マタイ12:20)。他の人々の強さと弱

さを思いやり、何かを成し遂げるよりも共にあることを喜びとする人は優しい。優しい人は、身軽に歩を

運び、心を込めて聞き、優しい眼差しを持って見つめ、敬意をもって触れます。優しい人は、真の成長

には、力によらず養い育てることが大切であることを知っています。自分に優しさをまといましょう。

強靭で、荒っぽく、しばしば四角四面な私たちの社会では、優しさが、私たちの間におられる神の現存

を生き生きと思い起こさせてくれるからです。


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)