なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(540)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(540)復刻版を掲載します。2010年1月のものです。

 下記に、2010年1月26日に私の戒規免職を決定した教師委員会の委員が、確か3人だったと思

いますが(松井委員長、張田委員、道家幹事)、何のアポントメントもなく、紅葉坂教会に突然やって

きて、3人を小集会室に通して話を聞きましたが、そこで私の戒規免職通告書を渡されました。折角来た

のだから、教会に入れて、通告書も受け取りました。後で法律の詳しい人から、その時通告書を受け取

らず、教師委員を追い返すべきだったと、私は批判されました。その時から、そろそろ5年になります。


       黙想と祈りの夕べ通信(540[Ⅺ-18]2010・1・31発行)復刻版


 今日はお昼ごろ、教団の教師委員会の委員長はじめ3人が連絡無しに突然やってきて、私を免職処分に

したという「通告」の文書を届けに来ました。そのことについても言いたいことはありますが、別の機会

にして、この月曜日に九州福岡に行って、頼まれていました九州教区の「教師問題学習会」で発題をし

てきました。その後7、8人の九州教区の方々と会食し話をしました。その中で、九州教区だけではな

いと思いますが、地方教区の一つの現実についてお聞きしました。それは子どもが中学生くらいに成長

し、教育費がかかるようになると、牧師謝儀を出せる教会が少ないので、どうしても都会のある程度大

きな教会に転任していくことになってしまうというのです。ですから、九州教区に長く在任して宣教の

働きを担うことができる教師はわずかで、一時的な腰掛として九州教区を通過していく教師が、どうし

ても多くなってしまうので、そこが悩みの一つだというのです。お話を聞いていて、教団にはまだまだ

現実的な問題で解決しなければならない課題が沢山あるということに改めて気づかされました。聖餐と

いう神学的な問題もさることながら、生活の問題で教会によって、特に地方教区と都市部の教区で教師

間に格差が出るのは不公正です。日本基督教団という教会がそういう面でも温かな教会でありたいと思

います。

 上記の私の発言に続いて一人の方の発言がありました。去る日曜日から月曜日にかけて当教会で性差

別問題全国連絡会があった。1年ぶりに会った人もいて、交流を深めた。名古屋でホームレスの方を勇気

付けている路上ライブをしている人のことをテレビで観て話したが、身体障がい者の方で多摩に済んで

いる人で、新橋で路上ライブをしている人がある。自分の作詞作曲で歌う人によって励まされている人

がいるということを知って、素晴らしいと思った。一生懸命生きる人の姿を通して感動した。一週間前

に飼っていた老犬が召された。その時夫も帰ってきており、二人で看取った。犬の体を拭いてやってい

るときに息を引き取った。悲しいが厳かな感じだった。生きていることも素晴らしいが、人の死も尊厳

が守られるようになったらいいなあと思った。

 もう一人の人の発言がありました。福音と世界の記事に日頃私が思っていたことが載っていた、「障

がい者」にはいろいろな言葉が当てられている。上記の他に「障害者」「障碍者」という表記も使われ

ている。言葉は難しい。障がいをもったいろいろな人と出会うと、生き難いものを負っている人は、一

つ一つの行為に健常者とちがって大変なエネルギーを使っていることが分かる。脳性麻痺の方が大変な

エネルギーを使って言葉を発する。しかし聞きにくいと無視されてします。そういう状況の中で、比率

として人数の多い健常者の一人として、障がい者に尊厳の眼差しをもって関わっていきたいと思ってき

た。その人が目が不自由だったら、車椅子だったら、段差社会から害を受けているという意味で、健常

者の方が障害者(障がい者の障害になっているという意味で)であるという自覚をもって生きていきた

い。福音と世界ではこういったものが最も遅れているのが教会ではないかと書いてあった。紅葉坂教会

でも聴覚障がい者の場合の受け入れはどうか。知的障がい者が来て、大きな声を出したり、多動的な子

が礼拝堂を駆けずり回ったりしたらどうか。それをお行儀が悪いという形で抑圧すれば、私たちが害を

与える側に立つのではないか。私自身が障害者(障がい者への壁)になっているのではないかと思って、

そういう自分ではなく、共に歩ませてくださいと思って、社会の壁を気がついた者がこういうことは害

になりますよと言っていきたい。ある教区の集会では聴覚障がい者に二人くらいついて手話や筆記でサ

ポートをしていた。私たちもチャンスがあれば、手話を覚えたり筆記を心得、すべての者が集える教会

として歩んでいきたい。


      「他の人々と同じようにある喜び」   1月31日


 一見、喜びは他と異なっていることと関連があるように思われます。褒められたり賞を得たりすると、

他の人々とは違うという喜びを経験します。人より早く走れる、人より頭がいい、人より綺麗、そのよ

うな違いが喜びをもたらしてくれます。しかし、そのような喜びは束の間でしかありません。本当の喜

びは、私たちが他の人々と同じであるところに秘められています。私たちは脆く、いずれは死ぬもので

あり、それは人類の一員であるという喜びです。友人として、仲間として、旅の道連れとして、他の人

々と共にいるという喜びです。

 これがイエスの喜びです。そしてイエスはインマヌエル「神われらと共にいます」方です。


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)