なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(40)

          船越通信癸苅亜  。横娃隠嫁1月15日     

・1月8日の日曜日は、礼拝後テーマ「命を大切にするキリスト教信仰」で話し合いがありました。発題はIさんです。Iさんの作ってくださったレジメには、〔燭箸蓮↓⊆殺者の命 心病む人が安心して来れる教会とは。〈人は病気で死ぬのではなく、人を死に至らしめるのは絶望である〉(キルケゴール)。 ぢ腓いこと小さいこと イ匹鹹譴料ケ朸飢颪らの課題と展望 とあります。そして「足あと」というM・.パワーズの詩が記されていました。

・〈『足あと』 ある夜 わたしは 夢を見た/神さまと 二人並んで わたしは砂浜を歩いていた/・・・・・/砂の上に 二組の足あとが見えていた/一つは 神さまの そして一つは わたしのだった/・・・・・/しかし最後に/わたしが 振り返って見たとき/ところどころで足あとは/一組だけした見えなかった/・・・・/「わたしの愛する 子どもたちよ/わたしは けっして/お前のそばを 離れたことはない/お前がもっとも 苦しんでいたとき/砂の上に一組の足あとが なかったのは/わたしが お前を/抱いていたからなんだよ」〉

・命とは「罪と死からの解放」である。命は「神から与えられた命」である。「キリスト教は自殺を否定する」。「自分の命を大切にできないと、他者の命も大切にできない」。人間は、生物の本性として生きる意欲を持っているが、死にたいと思うとき、その人の心が病んでいるのではないか。

・1998年以降自殺者が3万人を超えています。このところ毎年32000人もの人が自殺しています。交通事故死は28000人ですから、自殺者は交通事故死よりも多いことになります。心病む人が安心して来られる教会とは。船越教会は、今までみんなが元気で自立している「闘う教会」というイメージがあった。そういう教会に心弱った人が来ても拒絶されていると感じてしまうのではないか。みんなが強くなければいけないという在り方はよくないのではないか。という意見がありましたが、一方平和や人権という社会的な問題に取り組むことと心病む人に寄りそうことは、両立しなければならないし、両立する在り方もあるのではないかという意見もありました。

・また、キリスト教が命を大切にするというのは、キリスト教の歴史(中世の異端裁判や植民地支配との関連などで)からして嘘で、キリスト教こそ命を粗末に扱ってきたと言えるのではないか。ベトナム戦争にしてもイラク攻撃にしても、アメリカでは従軍牧師が兵士を祈って戦争に送り出しているわけで、そんなキリスト教が命を大切にしているとはとても思えない、という意見もありました。この問題は大切に思われますが、キリスト教というくくりかたではなく、聖書ないしイエスをどう受け止めるか、その解釈次第で命を大切にする場合もあり、命を粗末にする場合もあるのではないでしょうか。

・Iさんのレジメには「どん底の船越教会からの課題と希望」というのがありましたが、船越教会がいろいろな事情で少人数になっている事実はありのままに受け止めなければなりませんが、一人一人がそれぞれの生活の場で信仰の証言者として立っていくことが重要で、そのような一人一人が集って聖書からメッセージを与えられる礼拝を積み重ねていくことではないか。もし船越教会の営みに真実が少しでも感じられるならば、そこに招かれる人もあることを信じていきたい。

・もう一つ大切なことが問題提起されました。船越教会の礼拝に来ている人は散在していて、日曜の礼拝以外の週日は全く交流がない状態です。南米の基礎共同体のように生活と信仰を共有している仲間という面がほとんどない。このことが船越教会だけではなく日本の教会の礼拝が学校のような形になっているのですが、たとえ教会に来ている人が散在していても、信仰と日々の生活でのそれぞれの生き方が少しでも共有できる関係の構築が必要なのではないか、という意見もありました。また、何といっても一人一人が自立した信仰者となっていくことが重要である、という意見もありました。

・最後に、自殺のことを考える時、自分の悩みを自分で背負い切れずに自死することになるように思われるが、そこに人間の問題があるように思われる。人の悩みを神が代わって面倒をみるという信仰が大切ではないか、との発言がありました。

・以上、私の記憶を頼りに、皆さんの発言を私の言葉でまとめさせてもらいましたので、的がずれて受け止めているかも知れませんが、ご容赦ください。この日テーマの話し合いの後に開かれました役員会では、来月の第1日曜日の礼拝後今後のテーマ話し合いについて、私が司会をしてみんなで考えることになりました。

・この週は9日(月・祝)に高座渋谷教会で開かれました夫婦別姓と戸籍(Part1)「カップルいろいろ、暮らしもいろいろ」というテーマの女性と男性の共生をめざす集いに出席しました。10日(火)は常置委員会、11日(水)は紅葉坂教会の信徒の前夜式に、12日(木)は国会前辺野古新基地建設反対の座り込みに、14日(土)は関東教区と明日の教団を考える会の集会に講師として参加しました。

・1月8日の礼拝のメッセージは、マルコ福音書8章1-10節の4000人の供食の物語から取り次ぎました。同じ物語は6章にもありますが、今回は「群衆が空腹のままそれぞれの村や町に帰っていくのをしのびなく思い、彼ら(・彼女ら)の体を配慮する人」(荒井)としてのイエスに焦点を当て、荒野のパンの奇蹟に群衆も弟子たちもみんなの心も体も命に満たされた神の支配としての神の国の祝宴を思い描きました。空腹と「荒野でパンを手に入れてみんなに十分に食べさせることができるでしょうか」という弟子たちのつぶやきをイエスの奇蹟は凌駕します。そのイエスの奇蹟を信じて前進していくのか、そんなことありっこないとその地点から後退していくのかが問われています。みんなの心と体が満ちるイエスの奇蹟に向かって前進したいものです(詳しくは、「なんちゃって牧師の日記」ブログ1月14日を参照)。