なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(28)「パン五つと魚二匹」ヨハネ6:1-15

8月13日の日曜日は、私の夏期休暇中でしたので説教原稿はありません。その日船越教会は信徒講壇でしたが、担当者がコロナに感染し、急遽役員が相談して、以前に船越教会でしていただいた関田寛雄先生の説教で礼拝を行いました。下記は8月20日(日)の礼拝です。

 

8月20(日)聖霊降臨節第13主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌     202(よろこびとさかえに満つ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-202.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編119編73-80節(讃美歌交読文135頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書6章1-15節(新約174頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    57(ガリラヤの風かおる丘で)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-057.htm

⑨ 説  教     「パン五つと魚二匹」          北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今司会者に読んでいただきました五つのパンと二匹の魚によってこの男五千人の人たちがお腹いっぱいになったという、この共食物語は、四つの福音書すべてにある唯一の物語です。しかもマルコとマタイの福音書には、もう一つ別の四千人の共食物語もあります。

 

このことは、このイエスの共食物語が広く最初期の教会の中で言い伝えられていたからではないかと思われます。もしかしたら最初期の教会は、パウロのコリントの信徒への手紙にもあるように夕方から仕事を終えた人たちが集まって来て、食事を共にしながら聖餐式も行っていたのかも知れません。そのような教会にとって、このイエスの共食物語は、教会の在るべき姿を示しているものとして大切にされていたのでしょう。

 

このイエスの五千人の共食の物語は、みなさんもよくご存じだと思いますが、先ずヨハネによる福音書の記述に従って、もう一度振り返っておきたいと思います。

 

その舞台は、ガリラヤの海、すなわちティベリアスの海(湖)のほとりであります。大勢の群衆がイエスのあとについてやって来ます。「彼(イエス)が病気の人たちに対してなした徴を見ているからである」(2節、田川訳)と言われています。「イエスは目を上げ、多くの群衆が彼のもとへと来るのを見て、フィリポスに、『我々はどこからパンを買って、この人たちに食べさせようか』」(田川訳、以下聖書引用は田川訳)と言われたということが、五節に書いてあります。そして、それに続けて、6節に「これを言ったのは、フィリポスを試みたのである。彼自身は自分がこれから何をなそうとしているか、知っていたのだ」とイエスは言ったと記されています。

 

ところでそういうイエスの言葉に対して、フィリポスは7節で、「二百デナリのパンでも、この人たちがそれぞれ少しずつ食べるだけでも足りませんよ」と言っています。フィリッポスがそのように言うのは、当然です。すると、脇から、やはり弟子の一人であるアンドレアスが9節で「ここに、大麦パンを五つ持っている少年がいます。それにおかず(の魚)も二尾。しかしそれだけでは、これほど多くの人々に対して、何になりましょう」と言いました。これも当然のことです。ところが驚いたことに、イエスは、その子供の持っているパンとさかなを取り、感謝してから、それを、すわっている人々に分け与えられます。群衆はそれを十分に食べて、しかもその残りが十二のかごに一杯になった、というのです。

 

この共食の物語は、お腹を空かせている人への給食と考えることができます。そうすると、私たちの中でこの共食物語に通底する行為として考えられるのは、ホームレスの人たちへの炊き出しとか、最近では2012年ごろから始まり、現在では全国各地に広がっている子ども食堂ではないかと思われます。子ども食堂については、日本社会が一億中流といわれるような時代から、経済的な格差が広がって、貧困家庭の子どもたちがお腹を空かせているような状況になって、2012年に一人の方が始めて、各地に広がったと言われています。

 

ボンフェッファーは、このイエスの五千人の共食の物語について、このように述べています。「われわれが、われわれのパンをいっしょに食べる限り、われわれは極めて僅かのもので満ち足りるのである。誰かが自分のパンを、自分のためだけに取っておこうとする時に、初めて飢えが始まる。これは不思議な神の律法である。二匹の魚と五つのパンで五千人も養ったという福音書の中の奇跡物語は、ほかの多くの意味と並んで、このような意味を持っているのではないだろうか」(邦訳『共に生きる生活』62頁)。

 

このボンフェッファーの指摘は、大変重要な指摘だと思います。現在の世界でも「誰かが自分のパンを、自分のためだけに取っておこうと」しなければ、現在の世界の食糧生産で世界の全ての人が飢えることはないのです。しかし、国連は7月6日、世界の飢餓人口が8億2800万人と厳しい事態になっているとする「世界の食料安全保障と栄養の現状2022年版」を公表しました。現在世界の人口は80億人と言われますから、10人に一人が飢餓状態にあるということです。

 

人はパンだけ生きるものではありませんが、しかし人はパンなしで生きることはできません。そのことを思いますと、今この世界で飢餓状態に置かれている人が8億2800万人もいるということは驚くべきことです。しかもみんなが分ち合えば、その8億2800万人の飢餓状態に置かれている人がいなくなるだけの食糧生産が現在の世界にはあるにもかかわらずです。

 

このような現代世界の現実を思いますと、五千人のパンの共食物語が描いている世界は別世界に感じられます。

 

井上良雄さんは、聖書のイエスの奇跡物語についてこのように言っています。

 

「聖書に書いてあります奇跡物語が、すべて私たちの常識や知識を越えた驚くべき出来事であることは言うまでもありませんが、しかし例えばあのアラビアン・ナイトなどに出てくる魔法使いや魔術師など行なう不思議な術などとその決定的な違いは、それがいつも、人間に対する神の憐れみの業であるという点にあります。それが、いろいろな苦しみや悲しみや不安や欠乏の中にある人間に対する神の憐れみの業である、という点にあります。あるいは、それが人間に対するイエス御自身の奉仕の業であるという点にあるといってもよいかと思います」。

 

井上良雄さんは、聖書に書いてある奇跡物語は、「いろいろな苦しみや悲しみや不安や欠乏の中にある人間に対する神の憐れみの業」であり、「人間に対するイエス御自身の奉仕の業」であると言うのです。それは、言葉を変えて言えば、イエスの奇跡は、神の憐れみが支配し、神の独り子イエスの人間に対する奉仕が支配する神の国(支配)の現実と言ってよいのではないでしょうか。

 

五千人の共食の奇跡物語では、イエスが座の中心にあって、人々と食事を共にされています。この共食の奇蹟は、イエスとの食卓を共にする交わりを象徴しているのです。後の教会における聖餐式も、そのもとは、イエスと共なる食事から始まっているのだということを確認するのは重要なことです。少し注意して福音書を読んで見ると、福音書には、イエスが共にしたという食事の記事が非常に多いということに気づかされます。それは、イエスとの交わりの印象深い思い出の多くが、実際にイエスと共にした食卓の場面に関係していたということの反映であるように思われます。

 

「イエスは人々を神の国へと招かれたのですが、その招きは、喜びと祝福への招きであり、そのことを具体的に示すのは、食卓の場面であるのです。神の国はしばしば、福音書の中では、食事や婚宴の席にたとえられているのは意味深いことです。食事の時は、労働の厳しい一日の中での休み、いこい、養い、祝いと交わりの時であります。神は、日ごとの食事を通して、働き日のただ中で、私たちを喜びと祝いへと招いて下さるのです」(森野善右衛門)。

 

「一般に当時のユダヤ人の食卓は、貧しい質素なものでしたが、イエスが共にいて祝福して下さる時、食卓の場面は、喜びと恵みの満ちた場所となったのです。キリスト者の交わりは、永遠の命のパンを共にする交わりであると共に、またこの世のパンをもイエスから共に受ける者の交わりであり、イエスを食卓の主とする者の交わりなのです。古くから教会に伝えられ、祈られて来た食卓における次の祈りは、まことに意味深いものです――「主イエスは、日々の食卓の見えざる客である。主イエスよ、来たりてわれらの食卓の客となって、われらの食卓を祝福したまえ」(同上)。

 

「そのように、奇跡というものが、いつでもイエスの私たち人間に対する奉仕の業であるということ。神の私たちに対する憐れみの業であるということ。それは、大切なことですが、しかしそれと同時に、私たちが特にこの場合に注意しておきたいと思うことは、奇跡が私たち人間を信仰へと招くための神の業であるということであります。つまり、奇跡は、決して奇跡自身のためにあるのではないということです。奇跡によって起こることはが、どんなに素晴らしい驚くべきことであても、それは結局は、一時的なこと、過ぎ行くことに過ぎないのです。奇跡によって起こること、そのこと自身が決して重要なことではありません。主によって甦らされたラザロにしても、やがていつかは死ななければなりません。あのベテスダの池のほとりで三十八年間病気で苦しんていた人が癒されたという奇跡にしても、やはり彼は、いつか病気にかかって死ななければならないのです。ここでイエスからパンを与えられた五千人の人々も、いつまでも満腹しているわけではありません。やがてまた飢えなければなりません。ですから大切なのは、奇跡そのものではなくて、奇跡が自分自身を越えて指し示しているもっと偉大なもの――すなわち福音が神の国の現実として私たちに約束しているもの、それが大切なものなのです。ヨハネ黙示録21:3以下に「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」と書いてあります。そのような神の国の現実、それが、今ここにイエスがいますことによって、束の間のこととしてではあるにしても、奇跡を通して現実になっているということ。それがイエスが行ない給う奇跡であります。したがってそれは、譬えて言えば、暗い谷間の道を歩いている私たちに、上からさして来る木漏れ日のようなものだと、言うことが出来ると思います。私たちは、この暗い谷間にあって太陽を直接見ることは出来ません。しかしこの木漏れ日にふれて、私たちの頭上には確かに太陽が輝いているということを知ることができます。ですからルカ福音書11章20節で、イエスは、「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来たのである」と言っておられます。――特にこのヨハネ福音書で、奇跡が「しるし」という言葉で言われているのは、そのことを示していると思います。まさしく神の国のしるし――神の国を指し示すものであります。イエスは、このしるしである奇跡を通して、神の国を私たちに指し示し、私たちを信仰へと導き給うのです」(井上良雄)。

 

私たちは、その神の国への信仰をもって、主の祈りを祈るたびに、「み国を来たらせたまえ。/みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈っているのではないでしょうか。それは、2億8000万人の飢餓状態にある人がいるこの地上の国に、誰一人飢餓状態にある人を生み出さない、たとえ少しのものであっても、分かち合うことによって全ての人が満たされる神の国の到来を待望しているからではないでしょうか。私たちはその神の国の待望において、神の憐れみと人間に対するイエスの奉仕の証言者として、日々歩んでいきたいと願います。

 

主がそのように私たち一人一人を導いてくださいますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 8月は、6日に広島に、9日に長崎に、原爆が投下され、15日は敗戦(終戦)記念日です。この8月は日本が戦争をしかけ、アジアの国々を侵略し、敗戦を経験したことを、特に想い起させてくれる月です。戦争は奪い合いから生まれます。分かち合いから戦争は起こりません。神さま、どうかこの世界の現実が、奪い合いから分かち合いへと変わっていきますように、あなたの導きをお与えください。
  • 今もこの世界の奪い合いの中で、生活の基盤を奪われ、命さえ奪われる人々が後を絶ちません。その悲しみの中にある人びとをあなたが癒し、支えてください。軍事力によらずに、対話による問題解決への道を世界の国々の為政者たちが選ぶことができるよにお導き下さい。
  • 今もロシアによるウクライナへの軍事侵攻をはじめとして、世界では戦争が行われています。神さま、その戦争が一刻も早く終結し、平和な世界となりますように私たちをお導きください。
  • 様々な苦しみの中にある方々を助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

⑩      198(二ひきのさかなと)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-198.htm

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。