なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(31)「世に命を与えるパン」ヨハネ6:28-35

9月10(日)聖霊降臨節第16主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌     208(主なる神よ、夜は去りぬ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-208.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編142編1-8節(讃美歌交読文155頁)

 

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書6章28-35節(新約175頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    402(いともとうとき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-402.htm

⑨ 説  教    「世に命を与えるパン」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

ヨハネ福音書のイエスは、前回扱いました箇所の最後で、このように語りました。「失われる食べ物(朽ちる食物)を得るために働くのではなく、永遠の生命へと向って持続する食べ物(朽ちない食物)を得るために働きなさい。それは人の子があなた方に与えるものである」(27節、田川訳、以下今日の聖書箇所の引用は田川訳による)と。この言葉は直接的には、五千人のパンの奇跡に与った人たちで、イエスを捜し求めてカファルナウムにやってきた群衆に対して語られたものです。

 

しかし、イエスがそのように言われても、群衆はそれを理解しませんでした。群衆は、イエスの言葉を全く誤解してしまいました。彼らは、イエスが、「永遠の生命へと向って持続する食べ物(朽ちない食物)を得るために働きなさい」と言われるのは、何か特別な律法的な行いを、つまりどのような行為をするのかということを、自分たちに求めているのだと思いこんでしまったのです。そこで彼らは、28節で、「私たちは神の業を働くために、何をなしたらいいでしょうか」と尋ねます。すると、それに対してイエスは、29節で、「神の業とはこれである。すなわち、神が遣わした者をあなた方が信じるということだ」と答えられます。「神が遣わした者」とは、イエス自身を指していますから、ここでイエスは、「神の業を働くには、何をしたらよいのか」という群衆の問いに対して、「神が遣わした者」であるこの私「をあなたがたが信じるということだ」と答えていることになります。つまり、イエスは群衆に対して、「自分を信じなさい」と言っているのです。イエスは彼自身に対しての信仰を、群衆に求めているのです。それこそが神の業を行うことだと、断言しているのです。

 

井上良雄さんは、「私たちは、この(29節の)単純な言葉で、私たちの信仰生活の中心の中心が言い切られているのをみるのではないでしょうか」と言って、「パウロはローマ書3章で、人が『義とされるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるのである』(28節)と申した時にも、また宗教改革者が『ただ信仰によってのみ』と申した時にも、それはイエスのこの単純な言葉の繰り返し以外のものではありませんでした」と述べています。

 

しかし、イエスがそのように言われても、群衆はそれを理解することができませんでした。むしろ彼らには、イエスの言葉は、途方もない思い上がりの言葉のように聞こえました。そこで彼らは、30節、31節で、このように言います。「それであなたはどんな徴ができるのか。そうすれば我々が見て、あなたを信じることにしよう。どんな働きができるのか。我らの父祖は荒野でマナを食べた。彼(=神)は天からのパンを彼らに食べさせた、と書いてあるように」と。こういう言葉で彼らが言っているのは、結局は、そんなに自信をもって、自分を信じろというのであれば、一体あなたは、自分を信じさせるに足りるような、どんなしるしを私たちに見せてくれるのか。私たちの先祖のモーセに対しては、彼がイスラエル民族を導いて荒野を旅した時に、神は天からマナを降らせて、彼らを養って下さった。もしあなたが自分を信じることが神の業だというのであれば、モーセと同じようなしるしを私たちに見せてくれなければならない。彼らはそのように、挑戦的に言うのです。

 

それゆえイエスは、32節、33節で、「アーメン、アーメン、汝らに告ぐ、モーセは天からのパンをあなた方に与えたのではない。私の父があなた方に天からの真のパンを与えるのである。何故なら、神のパンは天から下ってくるものであり、世に生命を与えるものなのである」と言われます。イエスは、「モーセは天からのパンをあなた方に与えたのではない」と、はっきりと断言します。モーセは、出エジプトイスラエルの民を導いたが、どんなに優れた人であったとしても、所詮は人間に過ぎません。従って彼のマナも、所詮は地上のパンに過ぎません。それは決して「天からの真のパン」ではありません。それは確かに、旅の途上にあるイスラエルの肉体的な生命を、一時的に養ってくれるものでありました。しかしそれは、やがては腐敗してゆく日毎の糧に過ぎないのです。イエスがここで語っている「天からの真のパン」は、「世に生命を与えるもの」です。すなわちそれは、もはやイスラエル民族というような狭い限られた人びとだけを養うパンではありません。それは「世に」、この世界全体に生命を与えるパンです。そのことを、イエスは人々に語られます。

 

そのような驚くべきイエスの言葉を聞いた群衆が、34節で、「ご主人、では我々にそのパンをいつも与えていただきましょうか」と言います。この群衆の応答は、今まで群衆がイエスに期待していたことを断念して、イエスが言うところの「天からの真のパン」を求めるようになったということではありません。29節でイエスがご自身を指して言われた「神が遣わした者」が、イエスがいう「天からの真のパン」ですが、群衆は「天からの真のパン」をそのようには理解していませんでした。彼らにとっては、イエスは、あくまでも何か良いものを与えて下さる方であって、彼らは、その与える方としてイエスの手から、何かよいものを与えられるのを期待しているのです。その良いものというのは、もはや昨日与えられたパンのようなものではなくて、今イエスが言われたような、「天からの真のパン」というようなもっと素晴らしいものであるかも知れません。しかし変わらないのは、それがイエス御自身とは別な、何かあるものだということです。そういう彼らの考え方が全く間違いであるということが、次に35節のイエスの言葉によって、決定的に明らかにされます。

 

「それで彼らにイエスが言った、『私が生命のパンである。私のもとに来る者は飢えることがなく、私を信じる者は常に渇くことがない』」。この「私が生命のパンである」という言い方は、ヨハネ福音書独特の言い方です。私たちはこの言い方に出会うのは、ここが最初ですが、しかしこれからこの福音書を読み進んでいく中で、私たちは、繰り返しこの種の言い方に出会うことになります。すなわち、8章では「わたしは世の光である」(12節)、10章では、「わたしはよい羊飼いである」(11節)、11章では、「わたしはよみがえりであり、命である」(25節)、14章では、「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)、15章では、「わたしはまことのぶどうの木」である(1節)と、繰り返し同じような言い方が出てきます。

 

そういう言い方で語られているイエスの宣言が、共通して語っていることは、やがて終わりの日に示される事実が、(つまりイエスこそ命であり、世の光であり、良い羊飼いであり、よみがえりであり、真理である等々の事実が)、今ここにイエスがいますことによって、はっきりと、現在のこととして示されているということです。あるいは、今ここに立っておられるイエスこそ、終わりの日に、まことの命のパン、世の光等々として示される方であるということです。これは何という力強いイエスの宣言でしょうか(井上良雄)。

 

私たちはこの章の初めのところで、イエスが五千人にパンを分け与えられたという奇跡の物語を読みました。群衆はそれで満腹して、イエスを王に祭り上げようとしました。しかしそれは、何という思い違いだったことでしょうか。イエスのなさった奇跡は、ここで明らかになったように、ご自身こそが「まことの命のパン」であることを指し示すための行為以外のものではありませんでした。そしてまた、その翌日、このカファルナウムでの群衆とイエスの問答の中で、群衆はイエスに向かって、「あなたはどんなしるしを自分たちに示してくれるのか。何を自分たちに与えてくれるのか」と、イエスを追及しました。しかしそれは、何という愚かな追及だったことでしょうか。イエスは単になにかあるものを(それがどんなに良いもの、素晴らしいものであるにしても)、私たちに与える方ではありません。ここで明らかになったように、イエスご自身が最大の贈り物なのです。それゆえに彼は、群衆との問答の中で、「神の業とはこれである。すなわち、神が遣わした者をあなた方が信じるということだ」(29節)と断言されました。

 

大切なことは、イエスが単にあれこれの良いもの、素晴らしいものを私たちに贈ってくださる方であるだけでなく、神の私たちへの贈り物そのものであるということです。それは、今私たちが学んでいるこの部分の結論であるだけでなく、聖書そのものの結論だと言ってよいことだと思います。しかし私たちは、いつもそのことを忘れ勝ちです。ここでの群衆と同じように、いつもイエスその人から目を離して、イエスが私たちに何を与えてくださるか、何をして下さるか、ということにばかり目を奪われがちです。

 

エスは、私たちに平安を与え、喜びを与え、慰めを与えてくださる方です。しかし、一番大切なことは、そういうことではないということなのです。一番大切なことは、自ら真理であり、平安であり、自由であるイエスが私たちに与えられているということであります。イエス御自身が賜物そのものなのです。そのようなイエスが私たちに与えられる時に、そのような様々な良いもの、つまり平安であるとか自由であるとか喜びあるとか、そういう諸々の良いものは、あの「山上の説教」の中でイエス御自身が言っておられるように、「添えて与えられる」に違いありません。「おまけ」として私たちに与えられるに違いありません。35節で、「私が生命のパンである」と言われるイエスが、それに続けて、「私のもとに来る者は飢えることがなく、私を信じる者は常に渇くことがない」と言われているのは、そのことを物語っています。

 

エスは私たちになにかの贈り物を与えて下さる方であるだけでなくて、贈り物そのものである場合に、そういうイエスに対する私たちの一番正しいあり方、一番基本的なあり方は何かというと、私たちが彼から何かを受け取るということではなくて、むしろ彼のもとに行くということ、彼のもとに赴くということでなければなりません。それゆえに彼はここで、「私のもとに来る者は・・・・」と言われるのです。しかも、それに続けて、「私を信じる者は・・・・」と言っておられることが示しているように、彼のもとに行くということこそ、彼を信じるということに他なりません。つまり手に何一つ持たない者、貧しい者として、裸の者として、彼のもとに行くということ、それが彼を信じるということに他なりません。

 

そしてイエスは、そのようにイエスのもとに行く者、すなわち彼を信じる者は「決して飢えることがなく、かわくことがない」と約束しておられます。このイエスの約束は、決して私たちを欺かないということ、それはいつでも真実であるということ、そのことを、二千年の教会の歴史の中で、無数の人々が私たちに証ししてきたのではないでしょうか。

 

 (以上は、ほぼ井上良雄『ヨハネ福音書を読む』による)

 

今も十字架を負い、復活された主として、イエスは私たちと共におられます。この問題に満ちた厳しい時代を生きる私たちですが、この時代の只中で私たちと共におられるイエスのもとに行き、「世に生命を与える天からの真のパン」であるイエスを主と信じて生きていきたいと思います。

 

主がそのように私たち一人一人を導いてくださいますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日は、イエスご自身が神から私たちに与えられた贈り物であり、「世に生命を与える天からの真のパン」であることを、ヨハネ福音書から改めて聞きました。もしそのイエスが現在のこの世界の中心に立ち、全ての人がイエスを見あげて生きることができれば、戦争もなくなり、貧困もなくなり、様々な争いや差別もなくなり、国家や民族の壁を越えて、全ての人が互いに愛し合い、支え合う平和で豊かな世界が生まれるに違いありません。そのような神の国は私たちにとっては終末的な希望であり、現在の世界はなお高慢な人間の罪と死に支配されていますが、神さま、どうか私たちにその希望を持ち続けていく信仰を与えてください。そして、「世の光、地の塩」として、私たちひとりひとりがこの世の片隅であっても、生きていくことができますようにお導きください。
  • 神さま、台風や地震による災害が世界の各地に起こっていて、多くの人々が命を失い、被災の中で苦しんでいます。どうか災害で苦しんでいる人々を支えて下さい。また、適切な援助が速やかに与えられますようにお導きください。
  • 様々な苦しみの中にある方々を助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩     276(あかつきの空の美しい星よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-276.htm

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。