なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(38)「渇きを癒す方」ヨハネ7:37-39

11月19(日)降誕前第6主日礼拝   

               

注)讃美歌奏楽はインターネットでHんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」

詩編100:1-2)

③ 讃 美 歌  19(み栄告げる歌は)

https://www.youtube.com/watch?v=Cz9DAi5-l3I

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編105編37-45節(讃美歌交読文116頁)

         (A=4司会者、B=会衆)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書7章37-39節(新約179頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    58(み言葉をください)

https://www.youtube.com/watch?v=0J3KmKgsXTo

⑨ 説  教   「渇きを癒す方」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

最近気候変動によって世界では水による被害が広がっています。干ばつによって水が干上がり、アマゾンのように川を流通手段にしている地域では、基本的な生活手段を失って大変困っていると言われています。逆にエルニーニョ現象によって洪水を起こしている地域もあって、町が水没しかねないところもあるようです。そもそも水は、私たちが生命を維持していくためには、絶対に必要なもので、水をめぐって国と国、民族と民族が争い合うことも起こりますし、稲作を中心とした地域では、日本でも田んぼに水を引くことをめぐる争いは、いろいろなところで起こっていましたし、今も起こり得ることではないかと思います。日本は水に関しては豊かで、恵まれた国ですので、私たちは水があることを当たり前に思っているかも知れませんが、水を確保するために苦しんでいる人々は、世界には多くいることを忘れてはなりません。

 

今日はその水を象徴的に語っているイエスの言葉から、私たちに対する語りかけを聞きたいと思います。

今日のヨハネ福音書7章37-39節の新共同訳の表題は、「生きた水の流れ」となっています。まず37節の冒頭に、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」(新共同訳、田川訳は「祭りの最後の日に、大きな日であるが」、口語訳は「祭りの終わりの大事な日に」)と言われています。この祭りとは「仮庵の祭り」であって、<仮庵祭の祝いは、出エジプトをしたイスラエルの民のカナン定着以後は収穫の祭りと結びつき、農耕生活を前提にした雨乞いの祭りと同化されていた可能性があると言われます。イスラエルの民はカナン定着前の荒れ野での生活で、神から与えられた水、生きた水によって命をつなぎました。生きた水については、旧約聖書に記されているところがありますので、いくつか紹介したいと思います。

 

出エジプトの出来事と「生きた水」の関連)

  • 出エジプト17:6「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる」。
  • 民数20:10-11「そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。『反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか』」。
  • ネヘ9:15「彼らが飢えれば、天からパンを恵み/渇けば、岩から水を湧き出させ/必ず与えると誓われた土地に行って/それを所有せよと命じられた」。

 

元来この荒れ野のテント生活での神の導きを祝う仮庵の祭りが、カナン定着後イスラエルの民が農耕生活を取り入れる中で、雨乞いの祭りと結合して考えられているのです。この時代、仮庵祭と関連して水注ぎが行なわれていたとされています。そのような背景の中で、「イエスは立ち上がって大声で言われた、『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい』」(新共同訳、田川訳「イエスは立ち、叫んで言った、『もしも誰かが渇くなら、私のもとに来るがよい。そして私を信じる者は飲むがよい』」)と語っているのです。

 

 

《渇いている人》という言い方は、荒れ野で神の与えた生きた水が渇きをいやしたということとの関連で、ここでは言われていると思われます。

 

この仮庵の祭りの最後の日は、同時に一年の祭の暦の終わりでもありましたから、この日ほど盛大な祭りが行なわれる日はありませんでした。このように祭りの食事と神殿礼拝の盛大さを喜ぶ喜びに満ち、歓喜する群衆の中で、イエスは「渇いている者」に目を向けられたのです。

 

良いぶどうの収穫のあと、はなやかに行なわれる神殿礼拝をともなった喜ばしい仮庵の祭り以上には、何も必要としない満腹した人びとは、イエスの語ることに全然耳を傾けませんでした。しかしながら、この祭りを祝う、喜びに満ちた群衆の中には「渇いた者たち」がいたのです。イエスはその人びとを助けよう思いました。イスラエルが今もっている以上のものを必要とする人、自分の中に、満たされぬ要求をもち、自分自身方策もなく、助けもない人、そのような人はイエスのもとにきます。イエスは、その人に必要なものをお与えになるのです。

 

38節《わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる》とイエスは言われます。これは4章のサマリアの女に対して言われた言葉、<イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」>(4:10))と同じように理解することができます。

 

エス御自身が命のパンであると同時に命の水であり、命の水の与え手でありますが、イエスを信じる者もまたイエスと一つになることによって、自らの内から命の水を流れさせるようになると言うのです。<しかし、わたしの与える水を飲む者は決して渇かない。わたしの与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る>(4:14)。

 

この場合《聖書に書いてあるとおり》というのは、先ほど引用した旧約聖書の箇所で言われているように、過去の出エジプトの歴史を想起しているだけではなく、預言に現れる終末時のイメージとも結びつき、神殿の回復に際し、命の水が流れ出ることとも関係しています。(エゼ47:14、ゼカ14:8、黙22:1)。

 

(終末時のイメージと「生きた水」の関連)

  • <彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた>(エゼキエル書47:14)
  • <その日、エルサレムから命の水が湧き出て/半分は東の海へ、半分は西の海へ/夏も冬も流れ続ける>(ゼカリヤ書14:1)。
  • <天使はまた、神の小羊の玉座から流れ出て、水晶のような輝く命の水の川をわたしに見せた>(ヨハネ黙示録22:1)。

 

ヨハネ福音書2章21節で「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」と言われているように、神殿、つまり至聖所が、イエスの体をもって置き換えられます。そして、イエス御自身が神の臨在の場となって仮庵祭を凌駕し、《わたしを信じる者は、(イエスと一体となって)聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる》というのです。

 

エスを信ずる者が、ただ単に自ら満ち足りるようになるだけではない。その人からまわりに向かって生ける水が注ぎ出され、周囲のかわいた地をうるおし、まわりにある死の地をいのちに呼び起こすのであります。

 

エスの約束は、<その賜物を受けるすべての者がまた他人に対する恵みの奉仕者となり、キリストの器となり、あらゆる期待や理解を越えて祝福の仲介者となる>ことによって完成します。

 

エスは、ただ単に受けるだけをゆるされない、与えることを求められ、ただ単に自分が祝福されるだけでなく、他人にも仕えることを求められます。そのことがなければ、イエスの約束は、無効になるでしょう。イエスは、いかなる意味でも神の恵みを実りなく、無駄に受ける者を知りません。さらにまた他人に向かって進む者のみが、真にその水を飲んだのであります。

 

39節では、その命の水とは神の霊・聖霊だと言われます。ヨハネ福音書3:34には、「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである」と言われており、イエスに霊が限りなく与えられているということが宣言されているわけです。このイエスを信じることによって、信じる者も、この霊を受け、この霊によって命が与えられることになるというのです。具体的には復活のイエスが弟子たちを派遣するに当って、息を吹きかけ《聖霊を受けなさい》と言われた(20:22)ことを意味し、それと同じようにイエスを信じる者には“霊”が与えられるというのです。

 

ヨハネは、イエスの言葉がどのように成就するかを、私たちに説明しています。生ける命に水である“霊”は、神殿であるイエスから湧き出て、地上を流れる生ける川です。“霊”は、イエスを信ずる者の中にはいってゆき、その人をうるおし、そこでふたたび涌出して、まわりにいのちを与えるのです。私たち自身の中に起こる要求の成就も、また他人の中へ移ってゆく生かす力も、私たちが“霊”に捕えられ、形造られ、支配されることによって受け取るでしょう。“霊”は、もはや動揺せず、要求もしないで、〔すでに〕理解している確信を与え、いのちの宝が私たちに植えつけられるあの所有を与えるのです。“霊”はまた、他人に向かうあの愛を備え、他人を呼びさまし、強める言葉をその愛に添えるものでもあります。さらに他人を内的に捕え、反対を克服し、他人に助けをもたらす力でもあるのです。

 

エスに仕えることのできる私たちの能力は、ただ神が“霊”において私たちに内に現臨することからのみきます。また“霊”の輝きと贈与によって私たちの生活の基準が整えられ、生かされることからくるのです。しかし今、“霊”はイエスの約束において、イエスと結びついています。“霊”は、私たちがイエスのもとにゆき、イエスを信ずることに結びつきます。なぜなら、復活のイエスから“霊”の派遣が出てくるし、神的なものが、このように信仰者の内的生活の姿の中にはいり、信仰者自身の内的な所有として与えられからです。このような神の知識・愛・所有が出てきて、自分の行為、実り豊かな神奉仕、神の賜物の生きた贈与をこのように可能にさせるからです。まずイエスが御父のもとに上げられる、それから、イエスを信ずる者もまた、内的に神の現臨の中に、神との交わりに移され、神の恵みの担い手とされるのです(以上はほぼシュラッターによる)。

 

現代の世界の中で私たちも渇いている者ではないでしょうか。ここにきている私たちは、生活は何とかできる状態かもしれません。しかし、この社会に満足してはいません。増々格差が広がり、生活苦の人々が多くなっています。世界では軍事力によって大人だけでなく、幼い子供の命が日々奪われています。日本だけでなく、この地球世界はみんなが喜んで生きていくことのできる平和な社会とは、とても言えません。それでも自分だけそれなりに満足できる生活ができればいいというわけにはいきませんので、私たちも心の中ではすべての人を生かす「平和と正義と喜び」への渇きを持って生きているのではないでしょうか。

 

《わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる》と言われる、イエスの招きを受けて、イエスを信じ、私たち自身も、イエスと一つになって、たとえわずかな流れではあっても、イエスから与えられる「生ける水」を他の人々に流して生きることができれば幸いです。

 

主がそのように私たち一人一人を導いてくださいますように!

 

お祈りいたします。

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、イエスは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われました。
  • 神さま、私たちがイエスを信じ、イエスと一つになって、人間を生かす命の水を与えられ、その水を他者に向けて流して生きることができますようにお導きください。
  • 神さま、軍事力による戦争を一刻も早く終結する道を私たちに与えてください。
  • 戦争をはじめ様々な苦しみの中にある方々を助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩   432(重荷を負う者)

https://www.youtube.com/watch?v=M3yueTV34WY

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。