なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(579)

船越通信、№579、2230年8月20日(日)北村慈郎

 

  • 8月6日(日)は礼拝後、NさんとHさんが別々に用意して下さった昼食を礼拝参加者全員でいただきました。その後役員会を行ないました。この日の役員会は定例の案件のみでしたので、役員会も早めに終わりました。ただ役員会の話し合いの中で、コロナ感染拡大で2020年以来ここ数年皆でゆっくり話し合う機会もなかったので、「修養会を開き、『教会の将来について』やその他の課題を時間をかけて話し合う機会を作る」ことにしました。役員会が終わり、皆が帰った後、私は次週の日曜日8月13日が私の夏期休暇中ですので、13日(日)の週報を印刷して、受付に置いてから、後片付けをして鶴巻に帰りました。
  • 13日の日曜日の船越教会の礼拝は信徒講壇で、私は夏期休暇で13日の説教の準備をこの週にしなくてよいということで、この週は念願の私の部屋の本や書類の片付けに手を付けました。本は一般書とキリスト教関係に分けて、何れ古本屋に持って行ってもらうか、或いは何らかの形で処分しなければと思っていますが、今回は余り手をつけませんでした。むしろ書類類の整理をある程度まですることが出来ました。
  • 9日(水)夜には、「沖縄から米軍基地撤去を求め、教団『合同のとらえなおし』をすすめる連絡会」(”もとすす”)の事務局会がZoomであり、私は”もとすす”の世話人代表として参加しました。”もとすす”では、昨年11月にZoomによる全国集会「69年『合同』再考!」を行ないました。その集会についての世話人・事務局会の「まとめ」とその集会の発題者4人の内の二人の発題による通信と後の二人の発題による通信を二号に分けて出すことを確認すると共に、今後の事も話し合いました。”もとすす”の活動については、本年2月28日に「戦争をゆるさない東京キリスト者の会」(”ゆるキリ”)で私が話したものが、”ゆるキリ”の会報第16号に掲載されています。”ゆるキリ”の編集者に了解を得て、その”ゆるキリ”の会報第16号は、私の支援会通信第31号に同封して支援者には7月末に発送しましたので、読んでくださっている人もいるかも知れません。”もとすす”では原則として全国集会と全国総会を交互に行なうことにしていますが、その全国総会は、私の戒規免職問題が起こる前までは2年ごとに開かれる教団総会の会期中に行なっていました。しかし、私の戒規免職問題が起きてからは、私の支援会が教団総会会期中に全国集会を開くようになりましたので、”もとすす”は教団総会毎にその会期中に全国総会を開催して、全国から教団総会に出席する教団の信徒・教職を再結集する機会を失ってしまっているのです。個人的には大変申し訳ないと思っているのですが…。ただ2002年開催の教団総会で沖縄教区提案の「名称変更議案」と共に「合同のとらえなおし関連議案」の全てが審議未了廃案になって、沖縄教区が「教団に距離を置く」ようになりました。そのことと2010年の私の戒規免職処分とは、教団においては通底するところがあって、教団における沖縄教区との関係の修復と教団における私の戒規免職撤回も、あるとすれば繋がっているように思えてなりません。その意味で、”もとすす”と私の支援会とは双子のような関係にあるのかも知れません。
  • 10日(木)、17日(木)は、どちらも大変暑い日でしたが、国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに出かけました。辺野古では4年前から土砂の投入が始まり、辺野古側の埋め立て海域を外周護岸で囲み、埋め立てを進めていますが、防衛局によると土砂投入量は本年3月末時点で約110万立方メートルとなっています。埋め立て変更承認申請の計画では、大浦湾側も含め、全体で約2020万立方メートルが必要で、約5%にとどまっています(沖縄タイムズより)。私は国会前の座り込みでは参議院議員会館前の道路石壁には、「美(ちゅ)ら海に基地はいならい」というヘリ基地反対協が作った辺野古の写真も掲げていますが、現在辺野古側の海はその写真のようではありません。防衛大臣によれば、野古側の埋め立ては約92パーセントの進捗状況であると言われています。もう20年ほど前になるでしょうか、帰天した連れ合いと辺野古のテントを訪ねたことがあります。そのとき辺野古のおじい、おばあが、この海は沖縄戦で生き残った私たちの命を紡いでくれた大切な海だと言っていたのを思い出します。日本政府はかつて沖縄を犠牲にした反省もなく、再び沖縄を戦場にしかねない辺野古新基地建設を強行しています。何としても止めなければなりません。私はそのような思いで、毎週木曜日の辺野古新基地建設反対の国会前座り込みに参加しています。17日(木)には宗教者平和ネットの関係の集会が参議院議員会館であり、その集会のために来た東神大時代の友人が声をかけてくれ、しばらく話をしてから、彼は参議院議員会館へ入っていきました。何時もだと、この集会が午後4時前に終わって、私たちの座り込みの近くで、抗議行動を行ないますが、この日は午後4時少し前に私たちが片付けて帰る時にはまだ集会が続いていたようでしたので、抗議行動の前に私たちは帰りました。
  • 12日(土)にNさんから電話をいただき、13日(日)の信徒講壇のWさんがコロナに感染し、当日来れなくなったので、役員で相談し、13日(日)の礼拝説教は関田先生の説教にすることにしたと連絡を受けました。Nさんには、6日(日)に13日(日)の週報を印刷して、受付に置いて来たので、当日に礼拝式を変更していただくようお願いしました。Wさんの速やかな回復をお祈りいたします。ということで、私は予定通り、13日(日)は船越教会の礼拝をお休みし、自宅で一人で礼拝を行ないました。
  • 15日(火)は敗戦記念日です。この敗戦記念日前後になると、帰天した連れ合いが生前必ず落ち込んでいました。それは、彼女の誕生を知りながら、一度も彼女を見ずに、招集されてソ連国境の日本軍に配属されていた父親が、敗戦間際ソ連軍の「満州」国境侵入と「満州」国軍の反乱によって、撤退中に「満州」国軍の襲撃に会い、8月15日午前5時ごろ「あおむけに倒れて」戦死したからです。その彼女のことを思い出しながら、今年も敗戦記念日に平和への思いを強くしました。