「地獄について」(鶴巻通信35)
みなさんこの世の中に地獄があるとすれば、どこにあると思いますか?
例えば原爆が投下された広島や長崎の現実に、この世の地獄を見たという人もいると思います。
ウクライナやガザで爆撃を受けて、家屋が破壊され、幼い子供たちをはじめ多くの方々の命が奪われ、人々の生活が奪われてしまったような状況を、この世の地獄に譬えることもあるかも知れません。
また、戦争ではありませんが、貧困のために幼い子供の命が無残にも犠牲となるような状況を、この世の地獄に譬えることもあるかも知れません。
私も、「地獄」という言葉が当てはまる人間の現実があるとすれば、上記のように考えていました。
ところが今朝バルトの『一日一章』の今日の個所を読んで、「地獄」についての認識を改めさせられた思いがしています。
それは、上記のような人間の状況を「地獄」に譬えるだけでなく、バルトは、セレブな人々が集まってするパーティーも「地獄」ではないかと言っているように思います。
12月18日のバルトの『一日一章』は、ルカによる福音書1章51-52節「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げます」の解釈です。
私がはっとさせられて箇所をアトランダムに引用してみます。
「権力ある者自身と神は何も関わりません。私たちはおそらく皆権力ある者であり、神と何か関わりを持とうとするなら、私たちは必ず座から引き降ろされます」。
「座から引き降ろすことが生ずるとは、神が私たちに背を向けるという、全く単純なことだと私(バルト)は思います」。
「私たちの計画が成功し、目的が到達されるなら、最も恐ろしい地獄です」。
「地獄を、鞭打たれ、あるいは蒸し煮にされるところだけ想像しないようにしましょう。そこには偉大な紳士たちと感じの良い人びとだけが、ただし神のいない偉大な紳士たちと親切な人びとが一緒に集まっているでしょう」。
「この人びとは今や人生において望んで到達したものの中で動かずにいることが許され、永遠から永遠に動かずにいなければなりません。それは永劫の罰であり、それが地獄であります」。
「神が私たちに恵みを施し、まだ遅くならないうちに、どんな旅の途上にあるかを気づかせくださるならば、良いのですが」。
「主は、その身分の低さにおいて救い主を必要とし、有難いと思う、ということを理解した身分の低い人びとと関わってくださるのです」。
このバルトの地獄についての言説を、みなさんはどう思われるでしょうか。