なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「マリアの賛歌」2023年12月24日(日)燭火礼拝説教

ルカによる福音書1章47-55節(マリアの賛歌)

 

わたしの魂は主をあがめ、

わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。

今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。

力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。

その御名は尊く、

その憐みは代々に限りなく、

主を畏れる者に及びます。

主はその腕で力を振るい、

思い上がる者を打ち散らし、

権力ある者をその座から引き降ろし、

身分の低い者を高く上げ、

飢えた人を良い物で満たし、

富める者を空腹のまま追い返されます。

その僕イスラエルを受け入れて、

憐れみをお忘れになりません。

わたしたちの先祖におっしゃったとおり、

アブラハムとその子孫に対してとこしえに。

 

  • 先ず、先ほど司会者に読んでいただいルカ福音書1章47―55節のマリアの賛歌の主であるマリアとは、どのような人なのでしょうか。当時のユダヤの国では女性は子どもとともに、成人男子のようにその社会の構成員の数に入っていませんでした。女性も子どもも成人男性の所有物と考えられていたからです。その意味でも、マリアは社会的に小さな存在でした。マリアとは、人々から知られることのない、注目されることのない大工の妻、職人の妻でした。ルカ福音書のイエス誕生物語によれば、そのような社会的には小さな存在で、無名のマリアが、神から注目されて、救い主の母となるようにと選ばれた者になったと言われているのであります。
  • ボンフェッファーは、「マリアが選ばれたのは、何らかの人間的な美徳によるのではなく、確かな、偉大な信仰によるのでもなく、また謙虚さのためでもない。マリアが選ばれたのは、もっぱら、神の恵み深い意志が、卑しい者、無名の者、低い者をこそ愛し、選び、偉大にしようとしたからである」と言っています。
  • マリアが神の母となることによって、一体何が起こったのでしょうか。ここで起こったことは、この世の裁きと、この世の救いであります。ここで起こったことは、偉大な者や暴力を行なう者を突き落とし、権力者を王座から引き降ろし、高慢な者をへりくだらせ、卑しい者とされている人々を引き上げ、神の憐れみの中で偉大な者とし、輝かしい者とする方が生まれたということであります。
  • このマリアから生まれたイエスのもとにやって来る者には、何ごとかが生じるでしょう。すなわち、裁かれ、救いを受けることによって、私たちが人間として、神に命与えられた本来の人間らしさをもって生きることが出来るようになるでしょう。この方のもとにやって来る者は、そこで躓き、挫折してしまうか、あるいは神の完全な憐れみが与えられているのを見いだすかのいずれかとなるのです。
  • すべてのものの主であり、創造主である神自身が、ここで、小さな者となったのであり、この世のみすぼらしさの中に歩んで来たのであり、私たちのうちで無力な幼な子となったのだからです。そしてさらに、これらすべてのことが、私たちを美しい物語で感動させるために起こったのではなく、<神が人間的な高みにあるすべてのものを撃ち砕き、その価値を無にし、低いところに神の新しい世界を造ろうとしている>(同上)ということに私たちを気づかせ、そのことにわれわれが驚き、われわれが喜ぶようになるために起こったのだからであります
  • このマリアの讃歌を前にして、私たちにはしなければならないことがあります。それは、私たちが人間として生きていく中で、「高い」とか、「低い」とかいうことをどのように考えるかを明らかにするということです。私たちは、権力者になろうとしているかもしれませんが、実際に、すべてが権力者なのではありません。ほんとうの権力者はいつもわずかしかいません。しかし、多くの「小さな権力者」とでも呼ぶべき者がいます。この「小さな権力者」は、自分が権力をふるうことのできる範囲内でのみその権力を行使し、「より高い権力者となろう」というただひとつの思いに取りつかれているのです。ところが、神の考えは、これとは全く異なります。神は、「より低くなろう」とし、卑しい者となり、自分のことを忘れ、目立たなくなろうとするのであります。私たちは、この神が実際に歩んだ道においてのみ、神と出会うことができるのであります。それ以外のところで、神に出会うことはできません。
  • 私たちはすべて、私たちが「高い」と名づける人々、あるいは「低い」と名づける人々といっしょに住んでいます。私たちには、自分よりさらに低い者がいるのであります。マリアの讃歌は、このような私たちにとって、次のことを知るための大きな助けとなります。すなわち、<私たちの道を、神への道としようとするなら、高いところへ向う道ではなく、(全く権力者によって)卑しくされている、低い人々のところへ至る道でなければならない。私たちは、自分の生きている道が高いところへ向うものであって欲しいと望みますが、その道は、驚くべきことに、終わりを迎えなければならない>(同上)ということを知り、そのことを改めて学ぶための、しかもそのことによって私たちの考えを変えるための大きな助けとなるのであります。
  • 神は、私たちが毎年、クリスマスを祝うものの、それを真面目にとりあげようとしないことを見逃したり、無視してしまうことがないのです。神は、「大きな権力者」と、そしてそれ以上に多い「小さな権力者」のすべてを、マリアの言葉通りに、その椅子から突き落とすのです。すべての権力、すべての名誉、すべての名声、すべての虚栄、すべての高慢を打ち倒す者のみが、すなわち、自分を低き者として、神のみを高い方とする者のみが、マリアと共に、次のように言うことができるのであります。
  • すなわち、「私の霊は、救い主なる神をたたえます」と。

(※この説教はほぼボンフェッファーによります)。