なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(43)「真理と自由」ヨハネ8:31-38

12月31(日)降誕節第一主日礼拝   

               

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 

 (ヨハネ3:16)

③ 讃 美 歌  355(主をほめよ わが心)

https://www.youtube.com/watch?v=5lIETVCS6a4

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編145編10-21節(讃美歌交読文158頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書8章31-38節(新約182頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     469(善き力にわれかこまれ)

https://www.youtube.com/watch?v=BxkGqy-ZzzY

⑨ 説  教   「真理と自由」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

私は、先ほど司会者に読んでいただいたヨハネによる福音書の8章32節の「真理はあなたがたを自由にする」という聖句を、自分にとって大切な聖句の一つにしています。ですから、1995年の4月に名古屋から横浜に帰って、紅葉坂教会の牧師になった時に、教会の役員の方から道路の教会看板に掲げる聖句を選んでくださいと言われた時にも、即座にこの聖句を選びました。そこで、私が紅葉坂教会に在任した16年間は、紅葉坂教会の道路の看板の聖句は、この「真理はあなたがたを自由にする」になっていました。多くの教会では「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)の聖句が教会の看板に掲げられていると思います。

 

今日はこの聖句「真理はあなたがたを自由にする」を中心に、ヨハネ福音書8章31-38節から私たちへの語りかけを聞きたいと思います。この31-38節は、31-47節に至る長い段落のうちの前半部分になります。この部分は、イエスが信じるようになったユダヤ人たちに語られた「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(31,32節)という重要な言葉をめぐって展開されています。

 

エスは先ず「わたしの言葉にとどまるならば……」と言われます。ここに「とどまる」という言葉が使われていますが、この言葉はヨハネ福音書では重要な言葉で、ヨハネ福音書ヨハネの手紙を通して繰り返し用いられているヨハネ的用語の一つです。「とどまる」とは、イエスと弟子たちとの生命的な関わりを示す言葉で、イエスの言葉に規定された者として生きるということを意味します。

 

この言葉は、ヨハネ15章には、「ぶどうの木と枝のたとえ」として1-16節の間に11回も繰り返し出て来ます。「とどまる」とは、ただ何もしないでじっくりとくっついているという固定的・形式的なことではありません。だからイエスはこう言われるのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながって(とどまって)おり、またわたしがその人とつながって(とどまって)おれば、その人は豊かに実を結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。人がわたしにつながって(とどまって)いないならば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる」(ヨハネ15:3-6)。このぶどうの木とその枝のたとえが示していますように、それは一つの生命の働きであり、生命の充実を表わし、そこを離れ去ることは死に通じることを意味します。ぶどうの枝の場合は枯れてしまいます。まさに「とどまる」ことは生きることであります。

 

<ですから、イエスの真の弟子は、時の流れになびく風見鶏であってはなりません。いかなる時にあっても、イエスの言葉の中に留まり、福音に堅く立ちつづける人であります。キリスト者の生命は、イエスとのかかわり、イエスの言葉の中に留まりつづけることから来るのです。イエスの言葉は、キリスト者にとって文字通りの「いのちづな」なのです>(森野善右衛門)。

 

そして、そのようにして彼の弟子とされた者は、「真理を知り、真理があなたたちを自由にする」と、イエスは約束されるのです。ヨハネ福音書では、イエスはやがて14章6節で「わたしは道であり、真理であり、命である」と語られます。その真理であるイエスが、私たちに、「自由を得させる」と、約束されているのです。ここで言われている「真理」とは、「道」であり、「命」でもあると言われていますから、単なる知識ではなく、生きることの本当の目的と意味をさし示すものです。それはメシのたねにはならないし、すぐ役に立つ方便的なものではないかも知れません。むしろ真理の言葉は、私たちを神の前に立たせ、私たちを間違った考えや生き方から解放するものです。真の神を知ることによって、私たちは本当の自分を知り、本当の自由を得るのであります。そしてこのような本当の自分を知らしめ、本当の自由を与えてくれるものこそ、真理の名に値するのです。そのように神の言葉によって自由にされ、自ら学び、自分の内的な良心の促しによって主体的に生きる人間こそ、キリスト者であり、神とも隣人である他者とも和解と平和に生きるのではないでしょうか。「真理はあなたがたを自由にする」と言われている自由とは、そのようなキリスト者の自由ではないでしょうか。

 

その自由とは、何からの自由なのでしょうか。それは、34節の「罪を犯す者は罪の奴隷である」という言葉が示していますように、何よりも先ず罪からの自由に違いありません。罪の支配につて、シュラッターこのように言っています。少し長くなりますが、引用させてもらいます。<自分の自由を失い、罪の力のもとにくることなしには、誰も罪を犯しえない。私たちは、邪悪な意志からふたたび自由になることが不可能であって、腐りはてた欲望がいつまで私たちの中に生き続け、私たちを悪にさそい、勝ち誇った力によって完全に罪を行使するそのしつっこさにおいて、罪の支配を経験している。それにもかかわらず、イエスが罪の奴隷状態について語る時、私たちは、ただ単に私たちの意志の呪縛を考えるだけでなく、さらに罪人を襲い、不自由にし、いやしく、貧しく、悲惨にする完全な困窮状態をも考え得る。私たちの罪は、神と人との前における私たちの位置を定める。それは私たちを、神と人との二つのものから切り離し、神の前から逃亡させ、神の愛と祝福を駄目にし、さらに人間や自然からも分離する。私たちの罪は、愛を殺し、あらゆる交わりを断ち、私たちから成長の場所を奪い、私たちを無力にし、全くこわすことのできない鎖でしばりつける。私たちの邪悪な意志は、目的を達することは決してない。それは繰り返し効果のないまま突きもどされる。それは、努めて手に入れようとする幸福の代わりに、恥と苦痛と死を見出す。私たちは自分の意志に反して、それらすべてを持たざるをえない。人間は、自分の意志を偽り、腐らせるため、そのように意志のない奴隷にまで身を下げ、自分が逃れようとしているそのことをおこなわねばならず、自分が恐れている当のことで苦しまねばならない>。利己的な人間の罪の現実とは、まさにシュラッターが言う通りではないでしょうか。

 

パウロもローマの信徒への手紙7章19節以下でこのように語っています。<わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか>(7:19-24)

 

<まことのキリスト者の自由はどこに存するのか。その自由は何からなっているのか。彼らは罪責と罪のもたらす結果とから、キリストの血によって自由にされているのである。義とされ、ゆるされ、赦免されて、彼らは大胆に審判の日を望み見ることができ、こう叫ぶのである、「私たちを訴えるのは誰か。罪に定めようとするのは誰か」と。彼らは、イエスの言葉に留まることによって、罪の力から自由にされているのである。罪はもはや彼らを支配しない。彼らは新しくされ、回心させられ、聖化され、罪を死なしめ踏みつけて、もはやそれによってとらわれの身となることがないのである。このような自由こそ、キリストのもとに信仰によって逃れ、その魂をキリストにゆだねる日に、すべてのまことのキリスト者が所有するものなのである。その日に、彼らは自由人となるのである。このような自由が、永遠に彼らのものなのである。死もそれを終わらせることができない。墓も彼らの体をしばらくの期間を越えて捕えおくことさえできない。キリストが自由にしてくださった者たちは、永遠に至るまで自由なのである。/この自由について、私たち自身が何かの個人的経験をするまでは、決して安らうことのないようにしよう。これなくしては、他のすべての自由は無価値な権利にすぎない。自由な言論、政治的自由、商業的自由、民族の自由。これらすべては、市民的自由としてそれなりに大切なものであるが、死の床を平成にすることも、死のとげを抜き去ることも、良心を平安で満たすこともできないのである。それをなし得るのは、キリストが与えてくださる自由をほかにして何もないのである。キリストはその自由を、へりくだって求めるすべての者に無代価で与えてくださる。だから、その自由が私たち自身のものとなるまでは、決して安らうことのないようにしよう>。(ライル、一部言い換えている部分があります)

 

今日は大晦日です。明日から新しい年が始まります。「真理はあなたがたを自由にする」という真実を大切にして、罪の闇がますます深まっているかに思えるこの時代の社会にあって、イエスの言葉に留まることによって与えられる自由を、自分自身に与えられている平安に閉じこもるのではなく、この現実の世界の中であきらめないで生き続ける者でありたいと願います。

 

主が私たち一人一人をそのように導いてくださいますように!

 

 

お祈りいたします。

 

  • 神さま、今日は2023年の最後の日です。この日の礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • また、この一年間あなたの導きを、心から感謝いたします。
  • 今日は聖書の言葉から、私たちが「罪の奴隷」でありながら、イエスによって罪から解放されていることを、改めて想い起すことが許され、感謝いたします。現実の世界に生きる私たちは、罪の果実としての戦争や貧困や差別や環境破壊や、権力者の横暴によって苦しんでいます。その苦しみの中で、あなたの招きに応えてキリスト者として歩んでいる私たちですが、あなたの真理によって自由とされた者として、あきらめずに信仰と希望と愛をもって生き抜くことができますように導いてください。
  • ウクライナパレスチナに一刻も早く平和が訪れますように。また不当な支配の中で人権が無視されている国々に住んでいる人々の尊厳が回復しますように。貧困に苦しむ人々に救済の手が差し伸べられますように。また病や老いの中で心身の弱さの中で苦しむ人々にあなたの癒しと支えが与えられますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌   394(信仰うけつぎ)

https://www.youtube.com/watch?v=DNbuLw5JwRw

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。