なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

説教「神をたたえる(マリアの賛歌から)」ルカ1:46-57,

「神をたたえる(マリアの賛歌から)」」ルカによる福音書1章46-56節

                2024年1月14日(日)紅葉坂教会礼拝説教

この説教は、紅葉坂教会のユーチューブで視聴できます。ライブ配信は何時までなのかは分かりません。6~7週間ではないかと思います。紅葉坂教会の説教では、下記原稿に少しアドリブも入っています。また、このマリアの賛歌の説教は、船越教会の昨年の燭火礼拝でも、ほぼこの説教をコンパクトにしてしています。このブログにも掲載済みです。

https://youtube.com/live/l2xutFWnxS8?feature=share

  • 紅葉坂教会130周年を記念して、牧師経験者を説教に呼んでいただき感謝しています。私も去る12月4日で満82歳になりました。おそらく紅葉坂教会の講壇で説教させていただくのは、これが最後ではないかと思います。そこで、まず初めに紅葉坂教会への感謝の思いを、短くのべさせていただきたいと思います。
  • 私は紅葉坂教会の牧師経験者というだけでなく、実はここにいらっしゃる多く方も御存じのように、私も4年ほど前に召された妻の千賀も、紅葉坂教会に導かれて、この教会で洗礼を受け、信仰生活を始めた者です。そして私は東京神学大学に入学し、大学院1年生まで紅葉坂教会の礼拝に出席しました。その後は牧師になってから、1974年から1977年までは伝道師として、1995年から2011年まで牧師として紅葉坂教会に係わらせていただきました。連れ合いとは東京神学大学の大学院に入った時に結婚しました。私は、信徒として9年間、伝道師・牧師として19年間、合計28年間紅葉坂教会と関わらせてもらいました。連れ合いは幼い時から紅葉坂教会の日曜学校に来ていますので、私よりも10年位紅葉坂教会との関りは長いと思います。ここで詳しく申し上げることは出来ませんが、連れ合いは平賀徳造牧師ご夫妻に、私は上泉浩牧師ご夫妻に個人的にも大変お世話になりました。私たちの結婚式も教会の皆さんによって行うことが出来ました。そういう意味でも私たち夫婦にとって紅葉坂教会は特別な教会です。心から感謝しております。
  • さて、先程司会者に読んでいただいた「マリアの賛歌」は、私にとっては特別な聖書箇所の一つです。と言いますのは、今申し上げましたように、私が当紅葉坂教会で1974年4月から1977年3月まで伝道師をしていた時に、このマリアの賛歌の解釈について、通称「髭のおじさん」と言われていたある日雇い労働者から課せられた宿題になっている聖書箇所だからです。この髭のおじさんは、私が月一回礼拝で説教をしますと、必ずその週のうちに私を訪ねて来て、私のした説教についていろいろ意見を述べてくれました。その髭のおじさんは、マリアの賛歌で歌われている、特に52節の<権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ>というところは、毛沢東による中国革命によって歴史的にも実現していると言うのです。その髭のおじさんの解釈に対して、私は、マリアの賛歌を毛沢東の中国革命に直接的に適応することはできないと申し上げましたので、ならば、マリアの賛歌をどう解釈するのか先生の宿題にしておくと、髭のおじさんは言われたのです。1995年に紅葉坂教会の牧師になって、名古屋から横浜に戻って来た時には、すでにその髭のおじさんは帰天していましたので、この髭のおじさんの宿題に答えることができないままになっています。今日は、その髭のおじさんから与えられた宿題への答えという意味も込めて、マリアの賛歌について、ボンフェッファーの解釈に即して、お話しさせてもらいたいと思います。
  • 先ず、この賛歌の主であるマリアとは、どのような人物なのでしょうか。マリアと言うと、カトリック聖母マリアのイメージが強く、優しく私たちを包み込んでくれる母性の人と思っておられ方も多いのではないかと思います。そういうイメージからしますと、この激しい内容を示すマリアの賛歌がそのような優しいマリアによって歌われたとは、なかなか考えにくいのではないかと思います。
  • マリアの賛歌はキリストの誕生を待ち望むアドベントの讃歌ですが、このマリアの賛歌は、<情熱的であると同時に激しく、かつて歌われたアドベントの讃歌の中で最も革命的なものとみなすことができます。ここに登場するマリアは、絵画などにみられるやさしい、おとなしい、夢見るようなマリではなく、情熱的で誇らしげな、われを忘れて感激したマリアであります。ここには、われわれの多くのクリスマスの讃美歌に見られるような甘い、もの悲しい響きは何もありません。ここにあるのは、王座から引き降ろされた王と権力を奪われたこの世の支配者についての、そしてまた神の力と人間の無力さについての強烈な、手加減することのない、きびしい歌であります。ここには旧約聖書に登場する女性預言者(デボラ〔士師記4:4以下〕、ユデト〔旧約外典ユデト書〕、ミリアム〔出エジプト15:20,21を参照)の響きがあります>(ボンフェッファー)。
  • このマリアの賛歌を歌っているマリアは、48節でマリア自身が、自らのことを、<身分の低い、この主のはしため>と言い表していることからしても、社会的には小さくされている人と言えると思います。ヨセフは婚約を解消することなく、そのマリアを妻に迎えました。マリアは、人々から知られることのない、注目されることのない大工の妻、職人の妻でした。ルカ福音書のイエス誕生物語によれば、そのような社会的には小さな存在で、無名のマリアが、神から注目されて、救い主イエスの母となるようにと選ばれた者になったと言われているのであります。
  • ボンフェッファーは、「マリアが選ばれたのは、何らかの人間的な美徳によるのではなく、確かな、偉大な信仰によるのでもなく、また謙虚さのためでもない。マリアが選ばれたのは、もっぱら、神の恵み深い意志が、卑しい者、無名の者、低い者をこそ愛し、選び、偉大にしようとしたからである」と言っています(ボンフェッファ-『主のよき力に守られて』622頁)。
  • マリアがイエスの母となることによって、一体何が起こったのでしょうか。そのマリアにおいて起こっている神のみ業を、マリアは、「アドベントの歌」と言われるこのマリアの賛歌において、誉め称えているのであります。その神のみ業とは、どのような御業でしょうか。
  • このマリアの賛歌において誉め称えられている神のみ業は、先ほど紹介しました毛沢東の中国革命によって実現しているという髭のおじさんの解釈をも彷彿とさせるほどに革命的な御業です。特に51節から53節を読みますと、そのように思わざるを得ません。もう一度その箇所を読んでみます。
  • <主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます>
  • みなさんにとって、イエス・キリストによって示されている神の愛とは、どのような愛でしょうか。神から与えられる個々人の心の平安という神の慰めでしょうか。個々人の不安や恐れを取り除いてくれる神の憐れみでしょうか。そのように信仰を個人的なことに収れんして捉えてしまいますと、このマリアの賛歌の革命的な言葉が意味していることを見失ってしまうのではないでしょうか。
  • ここで起こったことは、この世の裁きと、この世の救い(解放)であります。ここで起こったことは、この世で偉大な者とされている人や暴力を行なう者を突き落とし、権力者を王座から引き降ろし、高慢な者をへりくだらせ、貧しく、卑しい者とされている人々を引き上げ、神の憐れみの中で偉大な者とし、輝かしい者とする方が生まれたということであります。
  • このマリアから生まれたイエスのもとにやって来る者には、何ごとかが生じるでしょう。すなわち、裁かれ、救いを受けることによって、私たちが人間として、神に命与えられた本来の人間らしさをもって生きることが出来るようになるでしょう。この方のもとにやって来る者は、そこで躓き、挫折して、立ち去ってしまうか、あるいは神の完全な憐れみが与えられているのを見いだすかのいずれかになるのであります。
  • すべてのものの主であり、創造主である神自身が、ここで、小さな者となったのであり、この世のみすぼらしさの中に歩んで来たのであり、私たちのうちで無力な幼な子となったのだからです。そしてさらに、これらすべてのことが、私たちを美しい物語で感動させるために起こったのではなく、<神が人間的な高みにあるすべてのものを撃ち砕き、その価値を無にし、低いところに神の新しい世界を造ろうとしている>ということに私たちを気づかせ、そのことにわれわれが驚き、われわれが喜ぶようになるために起こったのだからであります((ボンフェッファ-『主のよき力に守られて』625頁)。
  • このマリアの讃歌を前にして、私たちにはしなければならないことがあります。それは、私たちが人間として生きていく中で、「高い」とか、「低い」とかいうことをどのように考えるかを明らかにするということです。私たちは、権力者になろうとしているかもしれませんが、実際に、すべてが権力者なのではありません。ほんとうの権力者はいつもわずかしかいません。しかし、多くの「小さな権力者」とでも呼ぶべき者がいます。この「小さな権力者」は、自分が権力をふるうことのできる範囲内でのみその権力を行使し、「より高い権力者となろう」というただひとつの思いに取りつかれているのです。ところが、神の考えは、これとは全く異なります。神は、「より低くなろう」とし、卑しい者となり、自分のことを忘れ、目立たなくなろうとするのであります。私たちは、この神が実際に歩んだ道においてのみ、神と出会うことができるのであります。それ以外のところで、神に出合うことはできません。
  • 私たちはすべて、私たちが「高い」と名づける人々、あるいは「低い」と名づける人々といっしょに住んでいます。私たちには、自分よりさらに低い者がいるのであります。マリアの讃歌は、このような私たちにとって、次のことを知るための大きな助けとなります。すなわち、<私たちの道を、神への道としようとするなら、高いところへ向う道ではなく、全く卑しい、低い人々のところへ至る道でなければならない。私たちは、自分の生きている道が高いところへ向うものであって欲しいと望みますが、その道は、驚くべきことに、終わりを迎えなければならない>ということを知り、そのことを改めて学ぶための、しかもそのことによって私たちの考えを変えるための大きな助けとなるのであります。神は、私たちが毎年、クリスマスを祝うものの、それを真面目にとりあげようとしないことを見逃したり、無視してしまうことがないのです。神は、「大きな権力者」と、そしてそれ以上に多い「小さな権力者」のすべてを、マリアの言葉通りに、その椅子から突き落とすのです。すべての権力、すべての名誉、すべての名声、すべての虚栄、すべての高慢を打ち倒す者のみが、自分を低き者として、神のみを高い方とする者のみが、マリアと共に、次のように言うことができるのであります。すなわち、「私の霊は、救い主なる神をたたえます」と。
  • このマリアの賛歌の解釈は、ほぼボンフェッファーによっています。この解釈が正しいとするならば、イエスの誕生は、私たちがクリスマスを祝うような牧歌的な出来事ではなく、新しい人類の誕生という革命的な出来事であるということが分かります。正に資本や権力が支配する地上の国に代わる神のみ心が支配する神の国の到来であります。私たちはイエスに招かれて、イエスと共に神の国の住民としてこの資本と権力が支配する地上の国の中で神の国の証言者となったのです。教会は神の国の証言者の集まりです。一面では礼拝という祭儀を守るキリスト教団という信仰告白や教憲教規を持つ宗教集団の形を取っていますが、教会の本質は、イエスを信じて歩みを起こす人間の共同体にあります。この共同体はマリアの賛歌の革命的な神の御業を信じて、神の国の到来を祈りつつ、神と他者である隣人との和解と平和を大切にしてこの世を生きていくのであります。
  • 最初に申し上げましたように、おそらく紅葉坂教会の礼拝での私の説教はこれが最後になると思いますが、このマリアの賛歌が語る、驚くべきイエス・キリストの福音のメッセージを、みなさんと共有することができれば幸いです。

 

祈ります。