なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

教会は疑いもなく人びとの団体であります(鶴巻通信28)

                      (平塚の花菜ガーデンからの富士山)



 今日の(2月15日)の『カール・バルト一日一章』を下記に転載します。バルトは、[教会は疑いもなく人びとの団体であります]と言っています。そして人間の団体である教会には、「本当のキリスト者」ではない人びともいると言うのです。自分自身への自戒を込めて、このバルトの教会観をみなさんと共有したいと思います。

 

2月15日

 

「芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」。 マタイによる福音書13章26節

 

 イエス・キリストの教会に、いったい「他の人びと」は存在するでしょうか。キリストを通じて教会に来たのではなく、キリストを肯定して洗礼を受けたのではなくて、教会員であり、信仰告白を口にし、教会の生活にあれこれと加わる――何もかも見かけに過ぎないのであって、聖なる人びとではなく、「本当のキリスト者」ではないという人びとがいるでしょうか。

 譬えによれば小麦の中に毒麦があり、譬えによれば網に捕らえた魚の中に(同46節以下)腐った魚もあるかもしれません。どれほど多くの毒麦があると誰が分かるでしょう。どれほど多くの腐った魚があると誰が分かるでしょうか。12人の使徒たちの中にすでにユダもいたではありませんか。

 教会は疑いもなく人びとの団体であります。イエスの中に包み隠されて教会はイエス・キリストの体として生きています。かかる団体として教会は存在しますが、「人間的」認識、判断、決定に基づいて成り立っています。この人間的な(人間的に制約され限定された)もろもろの認識、判断、決定が、教会の主のくださるそれらと、何の問題もなく自動的に直接一体であるなどと私たちは期待できませんし、教会の人間的判断がイエスの弟子たちや、人びとについてのイエスの知識や決定や、彼らを御体の構成員になさるイエスの行為を、仮決定するとかそれどころか先取りすることができるなどとは、私たちには期待できないことです。

 教会の諸判断がイエスにより祝福され、確認され、その限りでただお求めに従うだけでなく、本当に御名において行われているということはありうるでしょう。しかし教会が創設され成り立っているのは、教会がそのこと、すなわち自らの限界を弁えているからです。つまりその際教会は御手にあって、主の確認と祝福を希望して、主の聖霊の自由な恵みを頼りとするからです。教会はイエスを信ずることにおいてのみ、設立され成り立つことができます。教会はこの点でもイエス統治権を認めなければなりません。だがそれは次のような認識を意味しています。すなわち教会は間違うこともありうる、従って、その人間的な分別によりその群れに属する人びとの間では、全く御体の構成員では「ない」、イエスにより選ばれて召命され、聖霊によりイエスを信仰することに目覚めたのでは「ない」、このような人びともありうると認めることです。

 ――そういうわけでアウグスブルク信仰告白(8条)は、「この人生で多くの偽りのキリスト者と偽善者、公の罪人たちも敬虔な者たちの間に留まっている」ということを考慮予測しています。従って教会の集団は、集団としては、「雑多な社会」であり、事実、ただ比喩的に、イエス・キリストの教会と名づけられる、ということもありうるのです。