なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(41)「世の光」ヨハネ8:12-20

12月10(日)待降節第2主日礼拝   

               

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ高低のある地は平らになり、険しい所は平地になる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。」

イザヤ書40:4-5)

③ 讃 美 歌  152(みめぐみふかき主に)

https://www.youtube.com/watch?v=23vbctZECR8

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編147編12-20節(讃美歌交読文160頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書8章12-20節(新約181頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   469(善き力にわれかこまれ)

https://www.youtube.com/watch?v=pYUXkXxUGV4

⑨ 説  教   「世の光」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日のヨハネ福音書の8章12-20節は、一つの纏まった個所になりますが、ここではイエスが、ファリサイ派の人々に「わたしは世の光である」(12節)と語られるその言葉がきっかけとなって、彼らとの間に議論が展開されることになります。

 

まずイエスファリサイ派の人々との議論のきっかけになりましたイエスの、「わたしは世の光である」という言葉について考えてみたいと思います。「わたしは…である」という言い方は、ヨハネ福音書独特の言い方であって、既に6章35節に「わたしは命のパンである」というイエスの言葉が出ていました。この後にも、「わたしは良い羊飼いである」(10:14)、「わたしは復活であり、命である」(11:25)、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)、「わたしはまことのぶどうの木…である」(15:1)などいうイエスの言葉がヨハネ福音書には出てきます。

 

ある人はこれらのヨハネ福音書に出てくるイエスの言葉について、「暗い夜道を歩むように歩み続けてきた私たちは、このイエスの言葉によって、その暗い夜道が突然サーチライトの光のようなもので、照らし出されたような思いがします」(井上良雄)と言っています。

 

「世の光」の「世」とは、「暗い夜道」に譬えられるように、私たちが生きている現実の世界を意味します。現在の世界の現実を見ても、ウクライナパレスチナのガザでの戦争をはじめ、内戦や強権的な支配によって、また、世界の各地に広がっている気候危機による自然災害や、富の一部の人による集中という経済格差や、様々な差別によって沢山の人々が苦しんでいます。日本を見ても、教育や医療・福祉よりも軍備に力を入れている日本政府、相変わらずの金権政治、生きる喜びを見出せずに、人を巻き込んで死を選ぶ人を生み出す現在の日本社会も、現在の世界の現実と同じように暗い夜道を生きているような状態なのではないでしょうか。

 

そのことはイエスの時代でも同じでした。当時のユダヤは、ローマの占領軍がはばをきかせ、貧しさがあり、病人が群がっており、律法主義者・ファリサイ派の人々のように人の行動を監視して、罪人としてレッテルを張るような人たちもいて、決して明るい時代ではありませんでした。中世は中世で暗黒時代という人もいます。宗教改革は、すばらしいもののように考えられていますが、その後には、戦乱が絶え間なく、異端裁判が行われ、また三十年戦争も起こったりして、ヨーロッパは荒廃しました。そんな昔でなくても、78年前の戦争(第二次世界大戦・太平洋戦争)はどうだったでしょうか。ユダヤ人の虐殺、南京事件、原爆投下等、まさにひどい時代でした。それは基本的には、戦後のこの78年の時代も同じです。バブル期の一時明るいかに見えた日本社会も、それは幻想に過ぎなかったことは、現在に至るその後に時代が明らかにしています。

 

今申し上げた人間の歴史を、暗い闇のような世界、と言っているのです。「闇」とは、真実が見えない、悪がはびこる、暗い、憂鬱が人びとを支配する、冷たい、愛がない、これらみな闇の実態です。

 

エスは、「わたしは、(そういう)世の光である」と言っているのです。この言葉をめぐって、それを聞いていたファリサイ派の人々とイエスの間に、論争が起こります。ファリサイ派の人々は、イエスの言葉に対して、それはあなたが、自分自身について「あかし」しているだけのことであって――つまりあなたの自己証言、自己主張に過ぎないのであって、真実の「あかし」ではないと言います(13節)。

 

私たちは、これと同様の議論を、すでに5章31節以下の部分で聞きました。あの所では、イエスは、一応相手の論理を受け入れて――すなわち自分自身についての「あかし」は無効だということを一応受け入れて、話を進めていますが、ここでのイエスは、「たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは真実である。それは、わたしがどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っていたからである」(14節)と言われています。すなわち、イエスだけが御自身の秘義について知っておられるのであるから、彼だけが御自身を「あかし」する方であり、彼以外に彼自身を「あかし」する者は必要ではないということです。

 

ファリサイ派の人々は、イエスは、自分のことを語っているから、自己宣伝だ、だから正しくないと言うのです。けれども自己宣伝をするのは、ファリサイ派の人々の方なのではないでしょうか。<施しをする時、ラッパをならし、断食の時は、悲しいか顔をする(マタイ6:2,16)。世の中には、「自分」のつく言葉で、あまり良いのはありません。「自己宣伝」、「自己主張」、「自己顕示欲」、「自惚れ」、「自慢」などです。罪とか、暗さとは、この「自」のついたことからくるのです。自己中心だから、真理が見えない、自分だけが勝とうとするから、人を押しのけ嫌われる。自己主張が強いから、愛がないし、冷たく、暗くなるのです>(蓮見和男)。

 

しかしイエスは、そのように言いつつ、律法が要求するもうひとりの証人として、父なる神を挙げられます。すなわち「わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかしして下さるものである」(18節)と、言われます。

 

しかしファリサイ派の人々は、それに対して何の反応も示さずに、「あなたの父はどこにいるのか」(19節)なとという愚かな問いを出します。それに対して、イエスは、「あなたがたは、わたしをも私の父をも知っていない。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたであろう」という言葉で――すなわちイエスを知ることを迂回して父を知る道はないのだという言葉で、この不毛な議論を打ち切られます(19節)。

 

そのためにイエスファリサイ派の人々の対立は、一層険しいものになったことでしょう。しかし、「イエスの時」はまだ来ていなかったので、誰も彼を捕えることはできませんでした(20節)。

 

さて、イエスファリサイ派の人々との論争のきっかけとなりました「わたしは世の光である」というイエスの言葉の「光」という象徴的な言葉は何を意味しいるのでしょうか。

 

エスはここで、ファリサイ派の人々が、「あなたは自分のことを語っているから、本当ではない」と言ったことに反対されました。その要点は、「わたしは自分ひとりではなく、わたしは、わたしを遣わしたお方といっしょにいるからです」という言葉につきます。それは29節にも出てきます。「わたしをお遣わしになったお方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」。つまり、「イエスは神とひとつ」なのです。それはただ存在がひとつだというだけではなく、「わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」とあるように、イエスの父なる神への服従を通して一つだと言うのです。

 

先ほど「自分」「自己」はいけないと言いましたが、もし自分がなければ、自我や目覚めや成長、自覚して自己が責任をもつこともなくなるでしょう。問題は、「自己」がいけないのではなく、「自分だけになること」がいけないのです。神と共なる自分なら良いはずです。イエスと神は一つ(一体)なのです。ところが、ファリサイ派の人々は、神とイエスが一つであることが分かりません。神御自身ひとりではなく、父と子との対話をもっておられるのに、そのことが分かりません。「神は愛である」とは、対話してくださる神、御自身も対話をもつ神という意味です。

 

その神と一であるイエスとは何者でしょうか。イエスの生涯が、イエスが何者であるかを物語っています。まず生まれた時、何と暗い時代でしょう。権力者の命令で、人口調査のため、故郷に帰らされ、泊まるところもなく、馬小屋で生まれました。イエスのまわりには、いつも飼う者のない羊のように、病める者、疲れ果てた者、らい病、あらゆる苦悩に満ちた人びとが群がりました。時の権力者や、宗教家たちは、イエスをなき者にしようとねらい、ついに十字架にかけることに成功しました。何というみじめな生涯ではないでしょうか。せめて死ぬ時ぐらい、平安に死なせればよいのに、そうではなく、死刑囚といっしょに十字架に架けられて、呻きながら殺されたのです。そのような暗さを負うことがイエスの姿であり、そのイエスが神と一体だと言うのです。この世の底知れぬ暗さがイエスを十字架にかけたのですが、そのイエスの十字架においてもイエスと神は一体であると言うのです。

 

最初にいつの時代でも暗さは変わらないと申しました。確かに暗さの様相は変わるかもしれません。しかし、この暗さの様相の背後に、本当の暗さがあるのを忘れてはなりません。それは一体何でしょうか。その本当の暗さとは、それは一言でいえば、「自分だけ」ということです。人間の罪の根源、それは一言でいえば、「自分だけ」ということです。確かにイエスの時代と、暗さの様相は違います。現代はまた現代の暗さの様相があります。しかし、変わらないのは、この暗さの底にある本当の暗さです。「自己中心」「自分だけ」です。

この暗さの根源に気づかない限り、暗さの様相は変わっても、暗さは依然として続きます。イエスは、罪、死、虚無、利己主義、あらゆる暗さの根源を担いました。十字架がそれです。そしてそこに神がいます。暗さとやみを担い給う神が、生きています。

 

十字架を信じ、「自分だけ」を乗り越えた人は、この暗さを根本的に克服した人です。暗さの底に光を見出した人です。

 

エスは彼らに語って言われました、「わたしは世の光です。わたしに従う人は、決して闇の中を歩くことがなく、いのちの光をもつでしょう」。闇は依然として続くでしょう。しかし、あなたはそこに闇をにない克服したお方をもっています。そのお方は、それだから神と一つなのです。あなたはこの変わらない暗さの様相の中で、そのただ中で、光を掲げることができます。なぜなら、この暗さを担いたもうお方、十字架のイエスは、神とひとつだからです。

 

光は闇の中に輝くのです。たとい闇が変らなくとも、その根源は変わったのです。ですからわたしたちは、それを克服する力をイエスから、十字架のイエスからいただいたのです。イエスは彼らに語って言われました、「わたしは世の光です。私に従う人は、決してやみの中を歩くことがなく、いのちの光をもつでしょう」。ですから、イエスを信じ、イエスに従う弟子たちに対して、すなわち、私たちキリスト者に対して、マタイは「あなたがたは世の光である」(5:14)と言うことができたのです。

 

そのことを肝に銘じながら、この暗い現代の世を、最後まで生き抜いていきたいと思います。主がそのように私たち一人一人を導いてくださいますように!

 

お祈りいたします。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日はアドベント第2主日です。ローソクが2本光を灯しています。今日は「わたしは世の光である」というイエスの言葉を思いめぐらしました。
  • 神さま、どうか私たちが、このイエスの言葉が示すあなたの福音の力を受けて、この暗い世にあって、イエスの光を掲げて生きることができますように、お導きください。
  • そして今なお「自分だけ」を求める私たちの罪によって生み出されるこの世の闇の中にあって苦しむ人々を支えてください。
  • ウクライナパレスチナに一刻も早く平和が訪れますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩   432(重荷を負う者)

https://www.youtube.com/watch?v=M3yueTV34WY

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。