「回復」エレミヤ書23:1-8、2017年2月5日(日)船越教会礼拝説教
・今日のエレミヤ書23章1節から4節までは、イスラエルの牧者たち(指導者たち)を告発する言葉です。
・同じ種類の預言がエゼキエル書34章に記されていますが、エゼキエル書の方が牧者たちがどんなことを
したのかがよく描かれていますので、エゼキエル書から引用したいと思います。<…主なる神はこう言わ
れる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たち。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳
を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強め
ず、やめるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失
われたものを探さず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した>(エゼキエル34:2-4)。このように群
れを養わず、自分自身を養うイスラエルの牧者たちのために、<彼らは飼う者がいないので散らされ、あ
らゆる野の獣の餌食となり、散りじりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷
う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない>(同
34:5-7)と言われているのです。<それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。わたしは生きている、と主
なる神は言われる。まことに、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとして
いるのに、わたしの牧者たちは群れを捜しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている>(同
34:7,8)。<それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者に立
ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自
身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ
>(同34:9,10)。
・エレミヤ書23章3節、4節ではこのように言われています。<「このわたしが、群れの残った羊を、追い
やったあらゆる国々から集め、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れるこ
とも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる>。
・この神ヤハウエが良き羊飼いとして、その羊たちであるイスラエルの民に対して注ぐ豊かな愛について
は、私たちは詩編23編の詩人による美しい詩編によって知っています。その冒頭には<主は羊飼い、わた
しには何も欠けることがない>と言い表されているのであります。パレスチナでは牧草と水とは同じ場所
で得られるとは限りません。季節ごとの移動ではなく、一日の放牧による群れの移動でも、かなり行進す
る必要があることが多いそうです。熟練した羊飼いは一日の行程の中にちょうどよい時間に、羊たちが水
のある場所にくるようにプログラムを組みます。水飲み場では昼の休憩を取ることが多いのですが、その
ような時に笛が吹かれるようです。羊たちは音楽を聴きながら憩うのです。
・4節、「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。/あなたがわたしを共にしてくださる。
/あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける」。羊の移動の時に、群れが岩のそびえ立つ渓谷を
通過しなければならないこともあります。そこは日の当らない暗い道であるばかりか、おそらく砂利道や
岩場の多い歩行困難な場所でありましょう。このような狭い悪路では群れは細長くなってしまい後方の羊
は先頭から離れてしまうので、危険は増大します。狼のような猛獣が羊を襲うこともあるだろうし、家畜
泥網が現れるかも知れない。これが災い(わざわい)の意味するところです。
・しかし、羊飼いは杖や鞭、こん棒の類いで武装しています。羊飼いはこれらの武器で「敵」に立ち向か
うのです。このような羊飼いの存在が、羊を恐れから自由にします。
・6節、「命ある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。/主の家にわたしは帰り/生涯、そこにと
どまるであろう」。
・敵に迫害されていた「わたし」は、今やヤーウェの庇護を受けて「さいわいと友愛」ないし「親切と連
帯」に追われる身となったのです。
・羊飼いなる神の導きと守りの確かさへの信頼、讃美、これがこの詩編23編から受けるものではないか
と思います。
・エレミヤは、イスラエルの牧者たち(指導者たちは)このような羊飼いとは全く逆のことをしていると
いうのです。牧者たちは群れを養わず、自分自身を養っていると。
・このイスラエルの牧者たち(指導者たち)への告発の預言の後に、「見よ、このような日が来る、と主
は言われる」と言って、「かなり後の時代になって、一人の義なる王が、ダビデの家系から出てくる(5
-6節)ことと、捕囚からの帰還に関する救済の言葉(7-8節)で終わっています。
・王たちに対する預言集のしめくくりに、この捕囚からの帰還に関する救済の言葉が置かれていることに
注目したいと思います。しかもこの救済の言葉は、イスラエルの家の子孫の解放と彼らの故郷への連れ戻
しは、エジプトからの救済と土地取得という古くからの伝承を色褪せたものにしてしまうというのです。
そしてこの新しい解放と帰還が、救済史の新しい時代を拓く、決定的な神の救済行為として、新たな救済
史伝承の対象となるであろうと言うのです。このことは、<ほかならぬ民が崩壊寸前にあるこの時点に、
エレミヤはこのような思想を告知したのであった。このこと自体、歴史の審判を通してその救済の歴史を
一貫して形成せしめる生きた神に対する、困難をも乗りこえる信仰の最も印象深い証のひとつである>
(ワイザー)と言えるでしょう。
・つまり、ユダの国がバビロニアによって滅亡し、主だったイスラエル人たちがバビロニアに捕囚されて
いくという国家崩壊寸前の状況で、エレミヤは王を批判し、イスラエルの牧者たち(指導者たち)を批判
すると共に、将来におけるイスラエルの民に救いをもたらす神の介入を確信していたのです。
・危機的な状況において、その危機的な状況をもたらしたイスラエルの王や牧者たち(指導者たち)の、
神ヤハウエを棄てて、異教の神々と大国の権力を恐れている不信仰を、エレミヤは批判すると共に、将来
における神の直接的な歴史への介入を語るのです。絶望的な現実を直視しつつ、それでもその絶望的な現
実を放置しておかない神の介入に希望を繋いでいるのです。
・ヘブライ人への手紙11章1節に、信仰に関する有名な言葉があります。それは「信仰とは、望んでいる
事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という言葉です。エレミヤはまさにその信仰を共有し
ていたのではないでしょうか。
・さて、私たちは今、いよいよ近代以降の時代と社会の行き詰まりにぶつかって、国家や民族の枠を超え
て、もう一つ今とは別の世界を模索している状態ではないかと思われます。けれども、トランプ大統領が
アメリカの大統領に当選して、にわかに国民国家の枠組みを強く打ち出し、自国主義がまた復活しそうな
勢いにあります。もし世界の中でこの流れが強くなっていきますと、東西問題と南北問題で苦しんできた
20世紀に世界は逆戻りしないとも限りません。安倍政権はアメリカとの同盟強化に邁進し、中国や韓国な
どのアジアの国々との関係の改善への努力を怠っています。あの悲惨な戦争を引き起こし、たくさんの
人々の命と生活を奪い、神の創造の世界を傷つけた日本は、軍事力によらない、憲法9条をベースにして
平和の実現に世界の国々にあって主導的な役割を果たすべきでした。戦後日本の政府は、アメリカの世界
戦略に書き込まれ、その高邁な精神と日本の国の役割を見棄てて、ただただアメリカの従属国として日本
の国を貶め、経済繁栄のみを追い求めて、現在に至っています。安倍政権はそのために、福島を見棄て、
沖縄を見棄ててはばかりません。
・エレミヤと違って、私たちはイエスの福音が与えられています。ヨハネによる福音書10章では、イエス
は「わたしは良い羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃっています。また、99
匹と一匹の羊の譬えでは、いなくなった一匹の羊を見つけるまで探し求める羊飼いを、ご身に重ねて語っ
ています。そのイエスは、ヨハネ福音書の告別説教の最後で、「これらのことを話したのは、あなたがた
がわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。
わたしは既に世に勝っている」(16:28)と弟子たちに語っています。
・今この時にあって、私たちはこのイエスの勝利を確信し、必ずや神がこのイエスにある勝利をもってこ
の世界の救済を実現してくださるとの信仰を強くもって、この厳しい現実社会にあって一人のキリスト者
として、同じ仲間に支えられ、助けられながら、小さくともその灯を掲げつづけていきたいと思います。