なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書におる説教(89)

  「いやし建て直す」エレミヤ書33:1-13、2018年3月25日(日)船越教会礼拝説教


・今日のエレミヤ書33章1-13節は、エレミヤが拘留中に彼に語られた主の言葉として記されています

が、33章1節には<主の言葉が再びエレミヤに臨んだ>と言われています。ここに「再び」と言われてい

るのは、同じ内容の預言が32章にも記されているからです。バビロン王によるエルサレムの征服・破壊と

将来のエルサレムの復興・回復の預言です。


・バビロン王によるエルサレムの征服と破壊は、エレミヤの預言では主なる神の怒りと見られています。

32章では、<この都は、建てられた日から今日に至るまで、わたしを怒らせ憤らせてきたので、これをわ

たしの前から取り除く。イスラエルの人々、ユダの人々が犯して、わたしを怒らせたそのすべての悪事の

ゆえである>(32:31,32)と言われています。33章では<・・・イスラエルの神、主はこう言われる。彼

らはカルデヤ人と戦うが、都は死体に溢れるであろう。わたしが怒りと憤りをもって彼らを打ち殺し、そ

のあらゆる悪行のゆえに、この都から顔を背けたからだ>(33:4,5)と言われています。


・私たち人間は、自らの行ったことの結果を引き受けなければなりません。バビロン王によるエルサレム

の征服と破壊は、南王国ユダの王、高官、祭司、預言者、そしてユダの人々が自ら行ったこと、異教の

神々を礼拝し、バビロンとエジプトという覇権主義的な国家の間を揺れ動いて自らの国を守ろうとしたこ

との結果なのです。エレミヤの預言では、それを神の怒り、憤りとして見ているのであります。


・将来のエルサレム復興の預言、回復の預言については、32章ではこのように記されていました。<しか

し今や、お前たちがバビロンの王、剣、飢饉、疫病に渡されてしまったと言っている、この都について、

イスラエルの神、主はこう言われる。/「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々

から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神

となる。・・・わたしが彼らの繁栄を回復するからである、と主は言われる>(36-38、44節)と。33章

では6節から9節にこのように記されています。<しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復

とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、

彼らをはじめの時のように建て直す。わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆

のすべてを赦す。わたしがこの都に与える大いなる恵みについて世界の全ての国々が聞くとき、この都は

わたしに喜ばしい名声、賛美の歌、輝きをもたらすものとなる。彼らは、わたしがこの都に与える大いな

る恵みと平和とを見て、恐れおののくであろう>と。そして10-11節では、回復をさまざまな喜びの声の

イメージを用いて描いています。廃墟と化した人も住まず、獣もいないユダの町々やエルサレムに、<や

がて喜び祝う声、花婿と花嫁の声、感謝の供え物を主の神殿に携えて来る者が、「万軍の主をほめたたえ

よ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と歌う声が聞こえるようになる>(11節)と。さらに12

節、13節では、<回復を都市のイメージではなく、羊飼いの野のイメージで美しく描>いています。<万

軍の主は言われる。人も住まず、獣もいない荒れ果てたこの場所で、またすべての町々で、再び羊飼いが

牧場を持ち、羊の群れを憩わせるようになる>(12節)と。


・さて、今日は棕櫚の主日で、今日からの一週間は受難週です。今年は受難節に入ってからの日曜礼拝で

は、教会歴の日曜日の聖書日課によらずに、エレミヤ書とマタイ福音書の箇所で説教をしてきましたの

で、もう受難週になるのかと思われる方もあるかも知れません。今日から受難週に入りますので、イエス

の受難の出来事、その中には、イスカリオテのユダの裏切り、イエスの逮捕、大祭司の庭でのイエスの審

問、ペトロの否認、弟子たちの逃亡、ピラトの審問、イエスの十字架刑、埋葬という出来事を想い起こ

し、それらの出来事を思いめぐらしながら、今日から始まる一週間を過ごしていきたいと思います。


・イエスの受難と十字架の出来事に遭遇した弟子たちは、裏切り、否認、逃亡という行為によって、自ら

の存在に決定的な否を突きつけられることになりました。挫折というか、もし新しくやり直すことが許さ

れるとすれば、ゼロから出発せざるを得ない、そのようなところに弟子たちは立たされのです。自分の中

にある闇の力によって支配されていて、自分からは立ち直ることができないほど、弟子たちは打ちのめさ

れてしまったのではないかと思います。イエスの十字架を前にして、弟子たちはどん底に突き落とされた

のです。


・この弟子たちのゼロの地点=どん底状態ということでは、エレミヤの預言における、エルサレムのバビ

ロン王による征服と破壊、そしてバビロン捕囚という破局に直面したイスラエルの民も同じではないかと

思います。そして第二次世界大戦で敗戦を経験した日本人もドイツ人もまた、ゼロの地点=どん底状態に

突き落とされたのではないかと思います。ドイツでは、1945年4月30日のヒトラーの自殺によってナチス

政権は事実上崩壊し、5月8日ドイツ国防軍が署名した降伏文書が発効したことによって、ナチス・ドイツ

体制は完全に終焉しました。日本の敗戦が1945年8月15日とすれば、ドイツの敗戦は約3か月前だったわけ

です。


カール・バルトに「ドイツ人とわれわれ(スイス人)」という講演があります。1945年1月と2月になさ

れたものです。ですから、このバルトの講演は、ナチス・ドイツ体制がまだ完全には終焉してはいません

でしたが、ほぼその終焉の時が見えていた時に、スイスで行われたものです。そのバルトの講演の一節に

このような言葉があります。


・<・・・私は今一度、今やドイツ人に提供されているあの独一無比な機会を想い起こします。もしも突

然こんな風に言われるとしたらどうでしょうか。>と言って、バルトはその時のドイツ人に対するキリス

トの語りかけとしてこのように語っているのです。<「わたしに来たれ! きみたち好感の持てぬ者ら

よ、きみたち悪しきヒットラー少年少女らよ、きみたち残忍な親衛隊兵士らよ、きみたち悪辣な秘密国家

警察(ゲシュタボ)のならず者よ、きみたち情けない妥協者らとナチ協力者らよ、かくも長きにわたり我慢

強くかつ愚かにもきみたちのいわゆる「総統(フューラー)」を追っかけ回してきたきみたち群畜的人間であ

るすべての者らよ! われに来たれ! きみたちの行為にふさわしきことが今やその身に起こっておりま

た起こらざるをえないきみたち咎ある者らと共犯者らよ! われに来たれ! たしかにわたしはきみたち

のことを知っている。だがわたしは、きみたちが何者であり何を行ったかは問わぬ。わたしはただ、きみ

たちがもう行き詰っていて否応なく最初から始めなければならない、というのを見るだけだ。わたしはき

みたちを元気づけたいのだ、まさしくきみたちとこそわたしは今やゼロ〔=どん底状態〕から新しく始め

たいのだ! もしもこの者ら~スイス人~が、これまでいつも大事にしてきたかれらの民主主義的・社会

的・キリスト教的諸理念のゆえに増長し、きみたちに関心を抱くことがないとしても、わたしは、きみた

ちに関心を抱いている。もしもスイス人がきみたちに次のように言うのを欲しないとしても、わたしは、

きみたちに言う。『わたしはきみたちの味方だ! わたしはきみたちの友なのだ!』と」>(バルト『教

会と国家掘57-58頁)。


・このヒットラーの犯罪に加担したドイツ人に向かって語られるキリストの言葉によって、戦後ドイツ人

が敗戦のどん底=ゼロ地点から立ち上がって、再建への道を歩んだかどうかは、私にはわかりません。た

だ自らの過ちの結果どん底に突き落とされた人間、ゼロから新しく始めなければ、その将来がない人間に

とって、バルトが言うように、「わたしは、きみたちに関心を抱いている。・・・わたしは、きみたちに

言う。『わたしはきみたちの味方だ! わたしはきみたちの友なのだ!』」と言う方が存在するというこ

とは、どんなに心強いことでしょうか。


・イエスの弟子たちが、イエスの十字架に躓き、裏切り、否認し、逃亡してしまい、イエスと同じように

自分たちも捕まって十字架に架けられるのではないかと恐れて、隠れていたそこに、復活の主イエス

やってきて、「平安あれ!」と語ったと聖書は告げています。これはまさにどん底状態=ゼロ地点に突き

落とされた弟子たちを、そこから新しく始めていくために招くキリストの声ではないでしょうか。「わた

しは、きみたちに関心を抱いている。・・・わたしは、きみたちに言う。『わたしはきみたちの味方だ!

 わたしはきみたちの友なのだ!』」。そのどん底状態=ゼロから一緒に新しくはじめようではないかと

いうキリストの招きです。


・エレミヤの語ったエルサレム復興と回復の預言も、バビロン王によるエルサレム破壊と捕囚というどん

底に突き落とされたイスラエルの民に対する、それでも「わたしは、きみたちに関心を抱いてい

る。・・・わたしは、きみたちに言う。『わたしはきみたちの味方だ! わたしはきみたちの友なの

だ!』」という主なる神の語りかけを意味するのではないでしょうか。


・私たち日本人も当時の教会もまた、戦前の天皇制国家の侵略戦争に加担して、敗戦を経験しているので

あります。戦責告白をした日本基督教団に属する教会は、戦争協力をした自らの罪責を告白して、「わた

しは、(罪を犯した)きみたちに関心を抱いている。・・・わたしは、きみたちに言う。『わたしはきみ

たちの味方だ! わたしはきみたちの友なのだ!』」。そのどん底状態=ゼロから一緒に新しくはじめよ

うではないかというキリストの招きによって、新しく歩んできたのではないでしょうか。その私たちの歩

みが、今また安保法制を成立させ、改憲によって憲法9条を骨抜きにして、戦争のできる国造りに邁進す

る安倍政権下にある現在にあって、問われているのです。二度と再びキリストの招きを裏切ることのない

ようにしたいものです。